「北白河、桜、です…」
「そうか、お前が北白河の娘か」

 桜はまた大きくこくんと頷く。
 眉間に皺を寄せて、御影の者は言葉を紡ぐ。その言葉達を取りこぼさないよう、桜は彼の口元に注目した。

 御影の者は不意に桜の髪をどけ、するりと耳元に触れる。
 桜は驚きながらも、彼を見つめる。

「聴こえないのか」

 何をもってそう判断したのかは分からないが、彼はそう呟いた。
 桜はゆっくりと「はい」と答えた。

「そうか」

 男性はそれ以上何も言うことなく、桜を家へと招き入れた。
「入れ」

 桜はまたぺこりとお辞儀をして、彼の後について敷居を跨いだ。

御影 黒稜(みかげ くろう)だ。ここに来たということは、私の妻になる覚悟を決めてきたのだろう?」
 桜はまた頷く。

「御影家は国に仕えている。国からのご用命とあらば、どんな仕事も請け負う。この婚姻もそうだ。帝が命じられたから、お前との婚姻を取り付けた。それ以外に意味はない」

 そう表情一つ変えずに、黒稜は淡々と告げた。

 桜は薄々勘付いていた。この結婚に、愛なんて生まれないこと。

 陰陽師としての力も使えない、耳も聴こえない桜をわざわざ妻に迎え入れる人間など、いるわけがない。

 黒稜は帝の命で妻を迎い入れたに過ぎない。結婚している、という実績が欲しかっただけに過ぎないのだ。

 でも、それでもいい。

 桜にはもう居場所がない。

 あやかし屋敷と言われる御影家だ。もしかしたら桜もあやかしの生贄にされたりするのかもしれない。
 けれどそれがどうだと言うのだ。 
 桜にはもう、何も残っていないのだ。ここで死んだところで、誰が悲しむわけでもない。

 ただ、今世は上手くいかなかっただけだ。また魂は天へと帰り、輪廻の輪を巡る。
 黒稜の言葉に、桜は静かに頷いたのだった。