ご挨拶どころか祝言の日取りも決まらないまま、桜は北白河の家を追い出された。

「そのうち御影の家が日取りや諸々設定するだろう。その後連絡をくれればいい」
 道元はそう言い捨てた。
 弥生も文江も、怖いくらいに笑顔で桜を見送った。

 桜は覚悟を決めた。
 もう帰る場所はない。

 この先命を失うことになったとしても、そういう運命だったと、受け入れる覚悟をしたのだ。


 御影の家までは、御影家が用意してくれた馬車で向かった。
 嫁入り道具など全くない。身一つの状態である。

 御影の家は山奥にあった。辺りは森林しかないような、辺鄙な場所だった。
 開けた場所に出ると、そこには民家と呼ぶには大きな和風建築の建物がそびえていた。

(ここが、御影のお屋敷…)

 桜はゆっくりと馬車を降り、玄関口へと向かう。
 「ごめんください」と声を掛けようとして、言葉をはっきり発音できないかもしれないと思った桜は、口を閉ざした。

 するとちょうど、玄関の戸がガラガラと音を立てて開いた。
 出来てきたのは、真っ黒な和装に身を包んだ長身の男性だった。

(あれ…このひと……)

 男性の顔を見た桜は、どこかでお会いしたような…と思案に耽る。
 相手も同じことを思っていたようで、男性の方が先に口を開いた。

「ああ…、お前は確か、この前緑地で会った…」

 桜もそうだ、と思い出す。

(この前緑地でハンカチを落とした方。あの時ははっきりと声が聴こえたような気がしたけれど、今日はやっぱり聴こえないわ…)

 聴力を失った桜に、人の声が聴こえるはずはないのだが、以前この男性に会った時確かにはっきり彼の声を聴いたのだ。不思議な人だとは思っていたが、まさかこの人が御影の人間だったとは。

 桜は大きくペコリとお辞儀をした。