(あやかしとお喋りするのなんて、いつぶりかしら…)

 術を使おうとしてそれが出来なくて絶望したあの日、それ以来だった。

 また沈んでしまいそうになる気持ちをぐっと堪えて、桜は顔を上げた。

(だめよ。気持ちに負のエネルギーを与えてしまってはだめ。それこそあやかしの思う壺になってしまうわ…)

 古来から住むあやかし達は、近年人々の負の感情を餌に力を得ている。

 あの人が妬ましい、あいつなんか消えてしまえばいい、殺してやる。
 そんな憎悪に満ちた人々の感情は、また新たなあやかしを生み出す元ともなり得る。

 当然桜はそのことを重々承知していたし、実際に憎悪が姿を変え、あやかしとなったところも見たことがあった。
 自分がそうなってはいけない。
 桜だって、陰陽師の端くれなのだから。

 頭で分かってはいても、やはり悲しみや後悔の念が心から消えてくれることはなかった。

(そろそろ帰らなくては…)

 陽が傾いてきた。逢魔時に差し掛かってしまう。あやかしが行動を始める時間だ。
 それに夕餉の支度や、弥生から頼まれていた書類の整理もしておかねばならない。
 桜は家へと向かって、重い足を動かし始めた。

 すると擦れ違った人の着物の袖から、ひらりとハンカチが落ちるのが目に入った。
 桜はそれを慌てて拾い上げる。

「あの…」

 これ、落としましたよ、その言葉さえ、相手に伝わらない可能性があるので、桜はなるべく短文で話すようにしていた。
 今回も声を掛け、ハンカチを差し出すことで気が付いてくれるものと思って、長くは言葉を紡がなかった。

 ハンカチの持ち主である男性が、桜を振り返った。

『ああ、それは私のものだ。ありがとう』
「え…」

 桜は思わず目を見張った。
 その男性の声は、はっきりと桜の耳に届いた。
 久々に聴く人の声に、桜は男性をまじまじと見つめてしまった。

 目の前の男性は端正な顔立ちであるものの、少し疲れたような覇気のない顔をしていた。
 男性の方も、何か驚いたようにこちらを見ている。

(人の声が聴こえる…!)

 桜は嬉しくなって、慌てて口を開いた。

「あ、あの、すみませ、」

 しかし、発した自分の声が桜の耳に届くことはなかった。

(え?あれ?やっぱり聴こえない…でも今たしかに……)

 たしかに目の前の男性の声が聴こえたのだ。それなのに、自分の声は聴こえないままだ。

(聴力が、戻ったのではないの…?)

 混乱する桜を男性は不思議そうに見下ろしていた。

『私はこれで失礼する』

 男性は踵を返し去って行く。桜は訳が分からず呆然と彼の後ろ姿を眺めることしかできなかった。