消毒液の匂り。
 廊下から聞こえる物音に、まぶたを閉じたまま意識している。

 いまだ馴染めないシーツの感触は、清潔ではあるが少し固くも感じてしまう。
 近付く足音が聞こえると、心の準備をしていた。

「おはようございます。月下明里(ツキシタアカリ)さん。体温測りますね」

 私の名前が呼ばれると、ベッド横に置かれた衝立から、看護婦さんが姿を表していた。
 体温計が渡され、それを脇に挟むと、目を合わせることなく話し始める。

「体調はどうですか? 替わりないですか」

「はい、大丈夫です」

 腕時計で時間を確認しているので、それ以上の会話はできないでいる。

「はい、もういいですよ」

 その呼びかけに、体温計を手渡すと、走り書きで記録をつけている。

「平熱ですね、朝食が来ますので、準備してください」

 看護婦さんは、カーテンを勢いよく開けると、足早に別の病室に向かって行った。
 
 この病室に寝泊まりをするようになり、一週間近くが経過している。
 ベッドが三つ置いてある病室だが、現在私以外誰も利用していない。
 あんなに体調も良かったのに、こんなに長い検査入院だなんて。

 顔を洗うため、部屋に設置された、小さな洗面台に向かっていた。
 鏡に自分の姿が映ると、そこには目元が腫れ、ボサボサな髪型をした、別人の姿が映し出されていた。

 家に帰りたい。

 いこごちが悪いと感じると、その気持ちは強まってしまう。
 味のない食事を済ませると、唯一許された病院内の中庭に、逃げるように出かけていた。
 
 そこは建物で囲まれ、日があまり当たることのない、小さなものだった。
 喫煙所にもなっていて、解放時間も朝の九時から夜の七時までとなっている。
 医師や患者が集まるため、飲み物の自動販売機も設置してあった。

 そこから距離をとり、反対に位置する室外機と並ぶベンチに腰を下ろした。
 消毒液の匂いのする病院のことを忘れさせ、心を踊らせる場所でもあった。
 周りから見えない足元には、イタズラ心で持ち込んだ、ペンタスが隠し置いてあったからだ。 

 母が、植木は根が張るから縁起が悪いと言っていたが、妹に頼み内緒で置いてある。
 この花の存在は、心の励みになっていた。

 ペンタスに興味を持ったのは、三年前に出会った、おじいさんから聞いた話が切っ掛けだった。

 以前もこの病院にお世話になったことがあったが、退院の際、両親が手続きをするのを待合室で待っている時のことだった。