翌朝

美咲は重いまぶたをゆっくりと開けた。薄暗い部屋に朝の光がぼんやりと差し込んでいる。目を閉じると、頭の中で何かがざわつく。ズキズキと響く頭痛。昨夜の出来事がぼんやりと浮かび上がっては消え、まるで夢の中の出来事のように曖昧だった。

「……あれ、何だったんだろう……」美咲は枕元で目を擦りながら、体を起こした。少しずつ頭が冴えてくると、のどの渇きに気づき、冷たい炭酸水を飲みたくなった。

ふらふらとベッドから起き上がり、軽く着替えて外へ出ると、まだ静かな朝の空気が彼女の体を包む。コンビニまでの道のりは短く、ぼんやりとしたまま炭酸水を手にレジへ向かい、会計を済ませた。

帰り道、ふと気持ちが少し晴れたような気がした。昨夜のことを思い返しながらも、頭の中はまだはっきりとはしない。何があったのか、何を感じたのか。記憶が断片的で、何か大事なことを忘れているような気がしていた。



マンションに戻り、エントランスを通り過ぎると、ふとポストに目が留まった。ポストを開けると、中には一枚のメモが無造作に差し込まれていた。

「……何これ?」美咲は軽い疑問を抱きながらそのメモを取り出す。達筆な文字がそこに書かれていた。それは、由紀の電話番号と、たった一言の署名だけだった。

高瀬

その二文字を目にした瞬間、美咲の胸に昨夜の出来事が一気に押し寄せてきた。家まで送ってくれた由紀の姿、彼女の冷静で優しい目、そして自分の弱々しい姿――すべてが一気に蘇った。昨夜の会話、由紀の触れた手の温かさ、その全てが現実であったことを、このメモが証明していた。

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「……どうして?」由紀の電話番号を目にしながら、美咲の心は混乱し始めた。どうして自分に連絡先を渡したのか。彼女が自分に対して何を思っているのか、美咲には全く想像がつかなかった。

ただ一つ、はっきりと分かるのは、由紀がこのメモを残したという事実。美咲の心臓は、その事実だけで鼓動を早めていた。

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「……かけるべきなのかな?」メモを握りしめたまま、美咲はソファに座り込んだ。まるで部屋全体が彼女の心の中の緊張感を映し出しているかのように、静まり返っていた。彼女の胸の中には、期待と不安、そしてどこか恐れが混じり合っていた。

由紀に電話をかけるという行為が、自分の中の何かを大きく変えてしまうのではないかという漠然とした恐怖。それでも、彼女の手は無意識にスマートフォンを手に取っていた。

「でも、なんて話せばいいんだろう……」彼女の頭の中で、言葉が混乱していく。由紀に伝えたいことがあるのか、自分でもよく分からない。ただ、彼女の存在が心の中に刺さった棘のように痛みをもたらしていて、その痛みから逃れたいという衝動に駆られていた。

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指先が震えながらも、美咲は番号を入力していく。一つ一つの数字を押すたびに、心臓がドクンと大きく脈打つ。最後の数字を押し終え、通話ボタンに指を触れた瞬間、全身が凍りつくような緊張感に包まれた。

「……」呼び出し音が静かな部屋に響き渡るたびに、美咲の心はさらに乱れていく。時間が止まったかのように長い数秒が過ぎていく。

その間、彼女の頭の中では昨夜の由紀の姿が繰り返し浮かび上がり、彼女がこの電話に出るのか、どう答えるのか、そのすべてが美咲の心に不安を投げかけた。

やがて、電話の向こうから自動音声が響いた。「おかけになった電話番号は……」その瞬間、美咲の心は氷のように冷たくなった。由紀は電話に出られなかった。

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「仕事中なのかな」美咲は、ほっとしたような、それでいて強く落胆した気持ちでスマートフォンを下ろした。由紀が出られないのは当然のこと。彼女には自分とは違う世界がある。仕事に忙しく、自分とは異なる大人の生活を送っているのだ。

それでも、美咲の心にはぽっかりと穴が空いたような寂しさが残った。まるで昨夜の出来事が、ほんの一瞬の夢に過ぎなかったかのような感覚が彼女を覆い始める。

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その頃、由紀はオフィスのデスクに向かっていた。編集者としての一日が始まると、彼女はすぐに仕事に没頭し始める。しかし、ふとした瞬間に美咲のことが頭をよぎる。

「本当に、大丈夫かしら……」彼女はパソコンの画面から目を離し、ふとデスクに置かれたスマートフォンに視線を落とした。そして、そこで見知らぬ番号からの着信履歴に気づく。

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「誰から?」着信履歴を見つめるうちに、由紀の胸に小さな直感が生まれた。この番号は、美咲からのものではないか――そんな考えが頭をよぎったのだ。

「電話を、かけてきたのね……」彼女は、少しずつ美咲の不安定さが見えてきたような気がして、胸がじんわりと温かくなるのを感じた。美咲が自分に頼ろうとしてくれた、その気持ちを想像すると、由紀の心には優しさが芽生えていく。

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昨夜の光景が鮮明に蘇る。由紀は、美咲が自分に寄りかかるように眠り始めた姿を見て、胸の中に何かが揺れた。美咲の繊細さ、壊れやすさ、そして人を拒絶することのない無防備さ。それが、由紀の中に眠っていた母性を目覚めさせた。

「私は、何をしてあげられるのかしら……」由紀は、美咲の無垢さに胸を締め付けられるような感覚を覚えた。彼女の中で、かつてないほど強い保護欲が芽生えたのだ。

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そのとき、彼女はメモ用紙に手を伸ばし、ペンを握りしめた。何かが自然と由紀の心を動かし、彼女は無意識のうちに電話番号を書いていた。由紀は紙に視線を落とし、自分の書いた番号を見つめる。その文字は、彼女が美咲に対して抱いた母性と心配が形になったものだった。

「これを置いておけば、何かあったときに……」そう思いながら、彼女はそっと美咲のポストに入れた。

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由紀にとって、それは美咲へのささやかな支えであり、繋がりを持ち続けるための小さな橋だった。由紀は、美咲がこのメモを見つけたとき、どう感じるだろうかと想像した。その不安定な心が少しでも落ち着くように、彼女が何かに困ったときに自分を頼ってくれるように、そんな願いを込めてそのメモを残していったのだ。

「何かあれば……頼ってくれればいい。」由紀は、美咲の寝顔を見つめながらそう心の中で呟いた。彼女の眉間には、わずかな不安の影が残っている。酔いがさめるまで、彼女の心の中にはどんな苦しみや葛藤が渦巻いているのだろうか。由紀は、そのすべてを知ることはできない。しかし、美咲の不安や孤独を少しでも和らげる存在になりたいと強く思ったのだ。

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一方、美咲は、由紀が自分に対してどんな感情を抱いているのか、全くわからない。ただ、彼女の言葉一つ一つに、自分の心が勝手に期待してしまう。そして、その期待が叶わない現実に、胸が締め付けられるような寂しさを感じていた。

「私って、本当に子供だな……」美咲は、自己嫌悪に苛まれた。彼女にとって、由紀は憧れであり、手の届かない存在。それでも彼女は、由紀に振り向いてほしいという願望を持ってしまう。まるで、青く美しいネモフィラの花が、高い空を見上げるように。

彼女はベッドに横たわり、天井をじっと見つめた。自分の中に渦巻く感情を整理できないまま、また由紀のことを考えてしまう。その瞬間、美咲の目に涙が浮かんだ。

「どうして、こんなにも彼女に惹かれるんだろう……」由紀のことを考えるたびに、美咲の心には葛藤と切なさが生まれる。それが何なのか、自分でもはっきりとわからない。ただ一つ言えるのは、由紀が自分にとって特別な存在になりつつあるということだった。

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由紀は翌朝、いつもと同じように仕事に取り組んでいた。編集者としての責任は大きく、次々と舞い込む連絡や会議に追われる。しかし、その合間にふと美咲のことを思い出してしまう。彼女が昨日の朝、電話をかけてきたことがずっと心に引っかかっていた。

「ちゃんと、彼女のことを考えてあげないと……」由紀は、昼休みの少しの時間を利用して、美咲のことをもう一度自分の中で整理しようと決めた。彼女はデスクの上に置かれたメモを見つめ、心の中に浮かぶ感情に向き合おうとした。

「美咲さん……あなたは、どれだけの苦しみを抱えているの?」美咲の不安定な姿が、由紀の心に焼き付いて離れない。彼女が一人で抱え込んでいる何かが、由紀の心を強く揺さぶっていた。

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由紀は、スマートフォンを手に取り、昨日美咲からかかってきた番号を見つめた。彼女が電話をかけてきたということは、何かを伝えたかった、あるいは何かを求めていたのだろう。由紀は、美咲がどんな気持ちで電話をかけてきたのかを考えると、胸にじんわりとした温かさとともに、ほんの少しの切なさが広がった。

「……彼女が私に頼ってくれるなら、少しでも力になりたい。」そう決心すると、由紀は深呼吸をしてスマートフォンに手を伸ばした。そして、画面に指を滑らせ、美咲の番号に折り返しの電話をかける。

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電話が繋がり、数回の呼び出し音の後に美咲の声が聞こえた。「もしもし……高瀬さん?」その声には、緊張と不安が滲んでいた。由紀は、美咲の声を聞いた瞬間に、彼女が自分に何を求めているのかを少しだけ感じ取ることができた。

「ええ、美咲さん。昨日はどうしたのかしら?」由紀は柔らかな口調で問いかけた。彼女の心の中には、美咲を安心させてあげたいという強い思いがあった。電話を通じて伝わる美咲の緊張感を感じながら、由紀は優しく彼女を包み込むような気持ちで話しかけた。

「……あの、先日はありがとうございました。それと……」美咲の声は小さく、震えている。その声を聞いて、由紀は彼女が何かに強く揺さぶられていることを感じた。彼女が何を伝えたいのか、何を求めているのかはまだわからない。しかし、由紀には美咲の心に寄り添うことができる気がした。

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「うん、気にしなくていいのよ。でも、何かあったらいつでも連絡してね。」由紀は優しく言った。その言葉には、美咲に対する母性と、彼女を守りたいという純粋な思いが込められていた。

「……それと、また……お会いできたらなって……思って……」美咲の声は震えていた。その言葉に、由紀は少しだけ微笑んだ。美咲が自分にまた会いたいと思っていることがわかり、安心すると同時に、彼女の心がどれだけ不安定であるかも感じ取れた。

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「そうね……」由紀は少し間を置いてから答えた。「それは……また、どこかで考えておくわ。」彼女の中にあるのは、美咲が一人で苦しむことなく、安心できる場所を持ってほしいという願いだけだった。彼女に寄り添いたい、支えてあげたい、そんな純粋な思いで返事をした。

「……はい……ありがとうございます。」美咲の声は、少し安堵したように聞こえた。その声を聞いて、由紀の胸にもほのかな温かさが広がった。美咲にとって、自分の存在が少しでも心の支えになっているのなら、それでいいと思った。

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「それじゃあ、私はこれから少し休むから。また何かあれば連絡して。」由紀は、できるだけ柔らかくそう伝えた。彼女にとっては、美咲が頼りたいときに頼れる存在であり続けることが重要だった。

「……はい。また……ご迷惑でなければ」美咲の遠慮がちな言葉に、由紀は少し微笑みながら答えた。

「大丈夫よ。じゃあね。」そう言って電話を切ると、由紀はスマートフォンを手にしばらく静かに考えていた。彼女の繊細さに触れるたび、放っておけないという思いが強くなるのだった。