数日後、美咲は気持ちを整理するために、再び銀座のバーに足を運んだ。由紀に気づいてもらえなかったことが、どこか心のしこりとなって残り続けていたのだ。

「ここに来れば、また話せるかもしれない……」そんな期待が、美咲を銀座へと向かわせた。

バーに入ると、ほのかなジャズの音楽と柔らかな照明が迎えてくれる。カウンターの席に座り、周囲を見渡すが、由紀の姿はどこにもない。美咲の心に一抹の不安と焦りが広がる。

「今日も来るかもって思ったのに……」美咲は、かすかに震える声で独り言を呟く。グラスを持つ手が小さく震え、その震えが自分の緊張と不安を物語っていた。

バーテンダーの篤史に注文したカクテルの甘さが口の中に広がるが、まるで味がしない。次第に、カウンターの周りが重たく感じられ、由紀が現れない現実に美咲は失望感を抱いていく。

何杯も重ねるうちに、酒が美咲の理性をゆっくりと蝕んでいく。「こんなに気にしても仕方ないのに」と心の中で繰り返しても、その気持ちは収まらない。由紀が現れない事実に、美咲は自分がどうしようもない存在だと思えてくる。

「もう……いいです……」美咲はふらふらと席を立ち、バーを後にした。銀座の夜風が彼女の頬を冷やすが、心の中は熱くざわめいていた。

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バーを出た彼女は、気持ちを紛らわすために家の近くのコンビニに立ち寄った。お酒で高揚した感情と由紀に会えなかった寂しさが、彼女を衝動買いへと駆り立てる。アイスクリームやチョコレート、クッキーやポテトチップス――次々とお菓子をカゴに入れていく。

コンビニのレジで会計を済ませ、ふらつきながら店を出たその時、目の前に見覚えのあるシルエットが現れた。

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「……え?」美咲は立ち止まり、目を瞬かせた。その人こそ、あの由紀だった。夜の街灯に照らされた彼女は、美咲の記憶の中よりもさらに冷静で、美しかった。

由紀は美咲の酔った姿と、手に持った大量のお菓子の袋を見て、一瞬驚いた表情を見せた。「……大丈夫ですか?」と彼女は声をかける。美咲は一瞬息を呑み、何も言えずに由紀を見つめ返した。

「……あなた、銀座のバーで……」由紀は美咲の顔を見つめ、何かを思い出そうとしているようだった。「まさか、こんなところで会うなんてね。」

美咲は由紀の目力に圧倒されながらも、どうにか言葉を絞り出した。「あなたは……なんでここに……?」

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由紀は一瞬ためらった後、淡々とした声で答えた。「この近くに引っ越してきたの。それで、買い物に……」そう言いながらも、由紀は美咲の顔に何かを感じ取ったようだった。だが、それ以上は何も尋ねず、美咲をじっと見つめる。

美咲はうつむき、酔いに任せてうまく言葉を繋げられない。それでも由紀の前に立つと、心の中で静かにざわめく感情が止められなかった。「こんな風に、また出会うなんて……」忘れようと決めたばかりだったのに、由紀の存在が再び心を掻き乱す。

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一方で、由紀もまた、複雑な感情を抱えていた。目の前の美咲に、自分の若い頃を重ねずにはいられなかった。由紀はかつて、自分自身をうまく扱えず、誰かに支えて欲しいと思いながらも頼ることができずにいた日々を思い出す。傷つきやすく、弱さを隠して強がっていた――そんな過去の自分を、美咲の無防備な姿に重ねていた。

「昔の私も、こんなふうに誰かに助けてもらいたかった……」由紀の胸の奥で、その思いが静かに広がっていく。美咲に対する親近感は、単なる優しさや同情だけではなかった。美咲を助けることで、過去の自分も救いたいという思いが自然と湧き上がっていたのだ。

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「とにかく、今のあなたの状態では一人で帰るのは危険ね。家は近いの?」由紀は心配そうに美咲を見つめながら問いかけた。

「あ……えっと、近くです……同じマンション……」美咲は頭がぼんやりしていたが、素直に答えた。アルコールのせいで意識は朦朧としているものの、由紀の問いには応じることができた。

「そう……なら送っていくわ。」由紀は少し強めの口調で決め、すぐに美咲の腕を支えながら歩き出した。由紀の手の温かさが、美咲を落ち着かせる。それでも、心の中にはまだ解けない緊張感が残っていた。

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エレベーターの中、二人の間に静けさが広がった。美咲は無言で由紀の存在を感じ、複雑な感情が胸の奥で渦巻いている。由紀はそんな美咲を見つめながら、言葉にできない自分の感情に戸惑っていた。

「どうして同じマンションだとわかったの?」由紀は、ふと思い出したかのように問いかけた。自分の記憶が曖昧なことに、どこか苛立ちを感じながらも、その疑問が口をついて出た。

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美咲は少し考え込むようにして答えた。「この間……引っ越し業者が来ていて……郵便受けに高瀬さんの名前があって……それで、エントランスで姿を見かけたから、新しく引っ越してきたんだなって……。」

その説明を聞いた由紀は、ふと不思議な感覚にとらわれた。記憶の片隅にあった美咲の顔や声が、少しずつ鮮明になっていく。それでもまだ完全には彼女の名前を思い出せない自分に苛立ちを覚えた。

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エレベーターが目的の階に到着し、二人は無言のまま歩き続けた。美咲の部屋に着くと、由紀は美咲をそっとソファに座らせ、キッチンに向かった。彼女が水を汲んでいる間、美咲はぼんやりとその背中を見つめていた。どうしてこんなにも由紀が自分の心を掻き乱すのか、美咲はその答えを見つけられずにいた。

由紀が水を手に戻ってきて、美咲の前に座る。彼女は少し躊躇しながらも、静かに尋ねた。

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「……あなたの名前は何だったかしら?」

その質問に、美咲の心臓が跳ね上がった。由紀が自分の名前を忘れていたことに、少しショックを感じたが、同時に彼女が尋ねてくれたことに、どこか期待のようなものも感じていた。「……美咲です。」彼女はか細い声で答えた。

由紀はその名前を聞いて、思い出したように表情を柔らかく変えた。「ああ、そうだったわね。美咲さん……銀座のバーで会ったとき、名前を聞いたのに、そのときはあまり話せなかったわね。でも、あなたのことはちゃんと覚えているわ。」

その言葉に、美咲は一瞬、驚きと喜びが混ざり合った感情に包まれた。自分が由紀の記憶に残っていたことに、安堵と嬉しさがこみ上げてくる。由紀にとって、自分がただの一夜の出来事で終わらなかったことが、何よりも嬉しかった。

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「覚えていてくれたんですね……」美咲は少し照れくさそうに微笑み、視線を落とした。心の中でずっとくすぶっていた不安が、わずかに和らぐのを感じた。

「もちろんよ。」由紀は微笑みながら、グラスをテーブルにそっと置いた。彼女の仕草には、どこか優しさと落ち着きが感じられたが、その裏にはまだ言葉にできない葛藤があった。

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美咲を目の前にしながら、由紀は内心複雑だった。目の前の彼女が、かつての自分を思い起こさせる存在であることは確かだった。しかし、その親近感だけではない。美咲の純粋さや脆さ、そして何かに強く惹かれながらも不器用に生きている姿に、由紀は自分でも理解しきれない感情を抱きつつあった。

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「どうして、そんなに飲んだの?」由紀は少し落ち着いた声で問いかけた。その問いには、ただの好奇心だけではなく、どこか美咲の内面に触れたいという気持ちが込められていた。

美咲は由紀の視線を避け、少し戸惑いながらも答えた。「別に……ちょっと、ストレスが溜まってて……」

由紀の目をまっすぐ見られなかった。自分が由紀のことをずっと気にかけていたなんて、もちろん言えるわけがない。美咲の中で、憧れや期待、そしてもっと深い感情が混ざり合いながらも、言葉にするのが怖かった。

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「そう……」由紀は短く応じたが、その言葉には美咲の言葉の裏にある本当の意味を探ろうとするような響きがあった。美咲はその声を聞いた瞬間、由紀は自分の気持ちを見透かしているのではないか――そんな不安が心を締め付けた。

美咲は、由紀の冷静な視線を避けたくて、膝を見つめながら体を縮こませた。誰に対しても初対面からオープンに接するはずの自分が、なぜか由紀の前では心を閉ざしてしまう。それがなぜなのか、美咲は自分に問いかけたが、答えは見つからないままだった。

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「今日はゆっくり休んで。無理はしないこと。」由紀は静かに立ち上がり、玄関へと向かう。その背中には、何かを言いたいような気配が漂っていたが、それ以上何も言葉にしなかった。彼女の一言一言が、美咲の心を強く揺さぶっていた。

美咲は彼女を引き止めたい衝動に駆られたが、何を言えばいいのか分からなかった。目の前にいる由紀が、ただの人ではない――その事実が彼女の胸の中で膨らんでいく。

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「……高瀬さん……」美咲はかすれた声で由紀の名前を呼んだが、それに続く言葉が見つからなかった。何を言えば、このもどかしさを伝えられるのか――その答えが、どうしても出てこなかった。

由紀は一瞬立ち止まるが、振り返らずにそのまま歩き出した。「おやすみなさい、美咲さん。」そう言い残して、由紀は静かにドアを開け、外へと出て行った。

ドアが静かに閉まる音が部屋に響き、美咲はそのままぼんやりとした意識の中で、彼女の残り香だけを感じていた。そして、アルコールの影響もあり、彼女はその場で静かに眠りに落ちていった。

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由紀は自分の部屋に戻る途中、先ほどの美咲の姿が何度も頭の中でよみがえる。美咲が昔の自分と重なって見えるのは確かだが、彼女に対して抱く感情がそれだけでないことも、由紀は薄々気づいていた。

「なぜ、こんなにも彼女を放っておけないのか……」由紀は深く息を吐きながら、複雑な感情に揺れていた。美咲の無防備さに心が惹かれながらも、その純粋さに自分が踏み込んでいいのか迷っていた。

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由紀はふと足を止め、バッグの中からメモ帳とペンを取り出した。何かを書き込んで美咲の部屋のポストに差し込んだ。そこには、彼女の電話番号が記されていた。

「もし何かあれば……」それだけを書き残して、由紀は静かにその場を後にした。由紀の美咲に対する母性本能が現れた瞬間だった。