クラブで朝まで踊り明かした夜から数日が経った。あの時の熱気と興奮は、忙しい大学生活の中で次第に薄れていった。美咲は大学の講義に追われ、友人たちと賑やかに過ごす時間が続き、銀座のバーでの出来事も、あの強烈な女性――由紀のことも、次第に心の奥底へと押しやられていった。

「なんだか忙しいとあっという間に時間が過ぎちゃうよね」と、美咲は大学の帰り道、親友の紗英に笑いかけた。彼女の笑顔には、数日前の複雑な感情がまるで存在しなかったかのような無邪気さがあった。

「ほんとね。でも、まあその方が気が紛れるじゃない?」紗英は軽く肩をすくめて答えた。彼女の何気ない一言に、美咲も笑い返しながら大きくうなずいた。

「最近、ようやくこの大学にも慣れてきたよ」と、紗英が微笑んだ。

「私も!転学してからまだ半年くらいだよね?」美咲は少し驚いたように返す。

「うん、前は経済学部で全然違うことを学んでたけど、やっぱり文学が好きで思い切って転学したの。だから今は文学部で1年生から美咲と一緒に勉強してるってわけ。」

「すごいよね、経済から文学に転学するなんて、勇気いるよ。」美咲は感心しながら言った。

「まあね。でも、自分の好きなことを追求したくなったんだ。それにしても、大学ってこうして新しい出会いがあるから面白いよね。」紗英は美咲に笑顔を向けた。

その日は、講義と課題の締め切りに追われる日常からほんの少しだけ心が解放された日だった。ふと立ち止まった瞬間、美咲の頭にある考えが浮かんだ。

「ねぇ、今『オペラ座の怪人』やってるんだよね。観に行こうかな」彼女はそうつぶやき、スマートフォンでさっそくチケットを検索し始めた。ミュージカルは、美咲にとって現実の喧騒から離れ、感情を自由に解き放つ特別な時間だった。過去に何度も舞台に救われた経験があり、心の揺れを落ち着かせるために足を運ぶのが彼女の日課だった。



数日後の夜、美咲は期待に胸を高鳴らせながら劇場のシートに身を沈めた。豪華なシャンデリアが天井から吊り下げられ、薄暗い空間に観客のざわめきが静かに響いている。開演のアナウンスが流れると、彼女の心臓は自然と鼓動を速めた。

「やっぱり、この瞬間がたまらないんだよね」美咲は心の中で独りごちた。カーテンが上がり、舞台に広がる壮大な音楽と華麗な装置に、彼女は一瞬で現実を忘れて物語の世界へと引き込まれていく。

『オペラ座の怪人』の物語が進むにつれ、美咲はクリスティーヌの揺れる心情や、怪人の孤独と切ない愛に強く共感した。彼女の目には、怪人の姿がどこか自分に重なって映る。

「愛することは、美しいけれど、痛みを伴うもの……」怪人がクリスティーヌに想いを伝えるシーンで、美咲の胸は熱くなった。舞台のクライマックスが近づくと、彼女の瞳にうっすらと涙が浮かぶ。自分の感情を表に出すことが苦手な彼女が、舞台の中で表現される愛の形に、自分を投影しているようだった。

幕が閉じ、劇場内に拍手が響き渡る。美咲はぼんやりと立ち上がり、手を叩きながら心に湧き上がる何かを感じ取っていた。ステージを去る俳優たちを見送るその目には、少しの悲しみと、わずかな希望が混ざり合っていた。



劇場を出た後、美咲は夜風に吹かれながら一人歩いていた。夜の街並みは、彼女にとっていつも特別で、心の中を不思議な気持ちで満たしてくれる。ふと、先日のクラブの夜と、由紀との出会いが脳裏をよぎる。だが、今はその思いに蓋をし、頭の中に浮かぶ言葉を形にしたくて仕方がなかった。

帰宅すると、美咲はすぐにノートを取り出し、ペンを走らせた。舞台で感じた感情が、彼女の中で形を持って溢れ出す。『オペラ座の怪人』の孤独な愛や葛藤が、彼女自身の心に共鳴していた。

「愛とは、時に私たちを傷つける棘のようだ……」美咲は頭の中を巡る言葉を一つひとつ丁寧に書き留めていく。怪人がクリスティーヌに向ける切ない思い、それはまるで自分自身に対して抱いている複雑な感情のようだった。

書き進めるうちに、彼女の頭に浮かぶのは、あの夜に出会った由紀の強い視線と、冷たくも美しい微笑みだった。自分が由紀に抱いたあの感情は何だったのか。彼女の中で、圧倒,憧れ、そして嫉妬のような感情が混ざり合う。

「由紀さん……」と美咲はつぶやき、ペンを止めた。その名前を口に出した瞬間、胸の中で小さな棘がチクリと痛んだ。忘れていたはずの彼女の存在が、詩を書いているうちに再び浮かび上がってきた。

ノートのページに、彼女は最後の一文を書き加える。「愛することは、甘美であり、痛みを伴う。私の心には、棘のようにその痛みが刺さり続けている。」



それから数日、美咲はミュージカルの余韻に浸りながら日々を過ごしていた。気持ちを切り替え、講義に集中することで、頭の中から由紀の存在を薄れさせようと努めた。しかし、彼女の記憶の片隅に、あの目力や冷たい笑みが小さな棘のように引っかかっているのを、どうしても無視することができなかった。

ある朝、マンションのエントランスを出ると、数台のトラックが目に入った。「引っ越し業者か……」と、美咲はいちべつしただけで通り過ぎる。高級住宅街ではよくある光景だったため、特に気に留めることもなかった。



大学から帰宅したその日、美咲はエントランスで新しい住人らしき女性とすれ違った。背筋がすっと伸びた後ろ姿に、どこか見覚えがある気がして、思わず足を止める。

「……気のせいかな?」心の中でつぶやきながらも、彼女の心臓はなぜか高鳴っていた。そのシルエットは、記憶の中に刻まれた由紀の姿に酷似していたのだ。



そして数日後、マンションの郵便受けに貼られた新しい名前を目にした瞬間、美咲の心は一気にざわめいた。

「……高瀬由紀?」彼女の視線がその名前に吸い寄せられ、思わず目を凝らしてもう一度確かめた。

「嘘でしょ…もしかして…?」頭の中で繰り返される疑問に、答えが見つからない。心臓の鼓動が早まり、手が小さく震え始める。美咲は急いで携帯を取り出し、紗英に連絡した。

「ねぇ、紗英!聞いて!この間銀座のバーで会った由紀さん覚えてる?その方がここのマンションに引っ越してきたの!」美咲の言葉は震えながらも、確信に満ちていた。

「マジで?そんな偶然ある?」紗英は驚いた様子で応じる。「でも、それって人違いなんじゃないの?」

「いや…そっくりだったし、名前も一致してたの。」

どうして彼女がここに?銀座のバーでの出来事は、あの瞬間だけのものじゃなかったのか?

「そうなんだね、すごい…運命のいたずらってやつ?」紗英は軽く笑いながら続けた。「偶然だって。大丈夫だよ。」

「うん…そうだよね……。」美咲はそう答えながらも、心の中ではどうしても納得できなかった。由紀が彼女の生活圏内に入ってきたことが、何か大きな運命のいたずらのように思えてならなかった。



電話を切った後、美咲はベッドに座り込み、手に持ったスマホを見つめた。紗英の言うように、ただの偶然だと割り切ることができればどんなに楽だろう。けれど、心の奥底では由紀の存在が確実に美咲の心を揺さぶっていた。

あの夜の銀座のバーでの出来事が鮮明に蘇ってくる。由紀の視線、彼女の放った言葉、そして彼女の持つ謎めいた魅力。それら全てが、今も美咲の心を掻き乱している。



その日から、美咲は自分でも驚くほど由紀のことを気にするようになった。マンションのエントランスを通るたびに、彼女とすれ違うのではないかと心臓が跳ね上がる。エレベーターのドアが開くたび、そこに由紀が立っているのではないかと無意識に緊張する。

そして、とうとうその瞬間が訪れた。



ある夕暮れ、帰宅途中の美咲はマンションの入り口で、由紀の姿を見つけた。由紀は郵便受けに手を伸ばし、郵便物を取り出していた。その後ろ姿はどこか静かで、上品な空気をまとっている。

美咲の心臓が一気に高鳴る。足元がすくむような感覚に襲われ、声をかけるべきかどうか迷う。彼女に気づかれたくないような、でも気づいてほしいような――矛盾した感情が、彼女の中でせめぎ合っていた。

しかし、由紀は振り返ることなく、そのままエントランスを後にした。美咲は由紀の背中を見送りながら、胸に残る違和感と虚しさに苛まれた。

「なんだ、私……。こんなに気にしてたなんて、バカみたいじゃない…」美咲は小さく笑い、足早に自分の部屋へと向かった。