(3)

 会社からほど近い繁華街に向かい宛を探すと、運よく個室居酒屋に入ることができた。混み合う店内を案内され、掘り炬燵形式の小さなスペースに久世と向かい合って座る。格子戸で仕切られるから一応個室という感はある場所だ。

「ここ、よく来るんですか?」
「何回か来た事あるよ。結構おいしいし、値段も手ごろだし。この前の同期会もここだったかな」

 お絞りで手を拭いている間に、久世が早速生ビールをふたつといくつかおすすめの料理を注文してくれた。店員が手元の端末ではなく久世を食い入るように見つめている。

「──羽多野さんの同期って言えば、喜田川さんとかですか?」
「そうそう。私、今年で八年目なんだけど、節目節目で退職転職は当たり前になるから、この会社での生き残りも少なくてさ。久世くんは? 同期会とかする?」
「あるみたいですけど、僕はあんまり。僕が参加すると揉めることも多くて」
「アッ」

 察するに余りあるな。

「ごめんね、余計なこと言ったわ……」
「いえ……むしろ面倒な奴で羽多野さんには申し訳ないです……」
 
 微妙な空気の中、よく冷えたジョッキに注がれた生ビールがやってきた。久世はジョッキを手に取ると居住まいを正して改めて私へ目を向ける。
 
「あの、僕をチームに迎えてくださって、本当にありがとうございます。精一杯やって羽多野さんに一生ついていくつもりですので、どうぞよろしくお願いします!」
「一生って。こちらこそ。久世くんしっかりしてるし、期待してる。まずは初契約おめでとう」

 乾杯を交わして、きりりとした刺激を喉で味わうと、久世は安堵と共に長々息を吐き出して柔らかく笑う。相変わらず眩しいほどの顔のよさだったが、穏やかでどこか照れたような笑顔に私は不思議と緊張は覚えず、むしろ温かな気持ちを抱いた。
 なんとかうまくやっていけるかも──そんなことさえ私は思い、久世は普段よりはしゃいだ様子で料理に舌鼓を打ち、話も弾んでグラスを重ね、そして……

「はたのさぁん、あのねえ、ぼくも、きたがわさんみたいに名前でよんでいーですか? 真咲しゃん。アハァ、いっちゃったぁ!」

 久世は私の腕をとってべっだりと体にもたれ、私の頭に恍惚とした表情を摺り寄せた。

「あ、あの、どう呼んでもらってもいいんだけど、まず離れてもらっていいですか……」
「えへっ、めぇっちゃいいにおいしますぅ」

 距離をとろうとしても恐ろしい力で引き寄せてくるし、何より席が狭くてすぐ横は壁といつの間にか追い込まれていた。
 別にそこまで酒を煽ったつもりもないし、何だったらこの前の課の歓迎会でのほうが久世は呑んでいたようにも思えるのだが、グラスを終えるたび目つきが変わり、こうしてえらい勢いで別人のごとく甘えてきた。

「久世くん、ちょ、ちょっと、というかだいぶ? 近い、かなぁ」
「あ……真咲しゃん、やっぱりぼくのかお、いやですか……? め、すぐそらしますよねぇ、うざいです?」
「そりゃ逸らすだろ。久世くん、お酒じゃないの飲もうか。ね」

 ソフトドリンクを注文しようとタッチパネルに手を伸ばしたところで、久世は私の手を取って阻止した。こいつ。

「うざい? うざいんだぁ……おれだって、好きでこんな顔してるわけじゃないのに」
「うざいなマジで」
「ましゃきしゃあ!」
「わぁーかったわかった! 大丈夫落ち着いて。うざくないから。安心して、自信もって、しゃきっとしよう」

 言われるがまま赤ら顔で背筋を伸ばした久世に、私は大げさなほど頷く。

「いいねぇ、かっこいいよ久世。世界で一番かっこいい。それじゃそのまま横に四回くらいお尻動かして離れよう」
「よんかい?」
「三回でもいいわ。とりあえず、ね」
「じゃもっかい、くぜってよんでください。呼び捨て、すっげいいです。ささった」
「離れて、久世」

 久世は途端またべったりとしなだれかかってきた。

「なんでくっつくんだよ! 離れろバカか!」
「真咲さん口悪いんだぁ。かっこいいぃ、好きぃ」
「ちょ、離れろマジで」

 まさぐるんじゃなぁい!

「あんたこういうことするからどこ行ってもトラブル起きるんじゃないの!? それなら自業自得だろ!」
「おれ、こんなこと他のだーれにもしません。真咲さんだから! 真咲さんだと、なんでか甘えたくなんの! ずうっと我慢してました。すきっ!」
「はぁ!?」

 やおら私の前にあったレモンサワーのグラスに手を付けようとした久世を制し、べたべたすり寄ってくる久世の顔を押しのける。
 解散だ! もはや解散するしか道はない。カードで即行支払いをすませ、私は半分寝たような久世を引き摺って通りでタクシーを捕まえると彼を押し込めた。

「久世、ひとりで帰れるよね」
「むりぃ」
「家どこ?」
「さいきんー、ぼく、ひっこいたんですよ。だからぁ……いま、ちょっとわかんないです」

 ダメだこいつ──!
 運転手の舌打ちが聞こえ、私は頭を抱えながらも後部座席に乗り込んだ。

「久世、定期どこ? 鞄漁るよ」
「えっちぃ」
「言ってろ」

 凭れ掛かってくるでかい男を無視して彼の薄い通勤バッグを開くと、すぐに電車の通勤定期が入ったカードケースを探り当てた。印字された駅名を見れば、私の自宅の最寄り駅のひとつとなりだ。
 とりあえず運転手には自宅方向に進んでもらい、その間に久世を何とかするしかない。

「久世、家ってマンションかアパートでしょ? 名前わかる?」
「にーまる、ごです」
「それは部屋番号なんだよなぁ」
「たしかぁ……カタカナっす!」
「大抵そうだろ。こらこらこら、匂い嗅ぐな!」
「はじめてあったときから、真咲さんいい匂いすんなぁっておもってて。しあわせ」

 にへら、とした緩んだ顔でさえも顔面が整っているとそれなりの威力を持っているものなのだと初めて知った。

「あんた、酔っぱらうとほんとめんどくさいね……」
「こんなよったの、はじめて」
「あっそ」
「──好きです」

 息をするように口説いてくる。あまりに自然な告白に、どきりとしたのは事実だ。だが、囁く吐息の酒臭さに酔っ払いの戯言である現実が付きつけられる。もはや三十路を前にした私は、残念ながらそんな簡単にときめいたりできないくらいには世慣れし、擦れてしまっていた。

 こいつは自覚がないだけで相当なトラブルメーカーだ。
 これまで引き起こしてきたであろう彼を取り巻くいざこざも、もしかしたら彼がささやかな種をまいてきたのかもしれない。
 やべぇ奴が来てしまった……。
 深いため息と共に窓の外に流れる景色は、いつの間にか見覚えのあるものになっている。こいつどうしよう。家もわからないのにこのままタクシーに乗せておくわけにもいかないし。
 近所のコンビニで水飲ませて様子みるか。

「真咲さん……」
「なに? 言っとくけど、私いま、あんまり機嫌よくな……い、どした? 顔色悪いな」
「きもちわるい。はきそう」
「えっ!?」