それから数日の間は何事もなく過ぎた。
 その日は定時をいくらか過ぎ、残務整理を終え、明日の予定を確認して席を立ったところで私は久世から声をかけられた。

「羽多野さん、お帰りのところすみませんが、例の件相談いいですか」
「あ、例の件ね。いいですよ」
「じゃあ、帰りながら」

 流れるように鞄を手に立ち上がった久世を伴い、オフィスを出る。一緒に帰るための口実のひとつなのだが、下りのエレベーターを待っていると「お疲れ様ですぅ」と相田さんが久世の横に並び、水野くんも追いつき、人がパンパンで乗れなかった一基を見送っているうちに喜田川と戸田さんまでエレベーター前に並んだ。

 ──いや多いな。

 結局連れ立って帰ることになってしまい、相田さんの「例の件てやつ、相談しないんですかぁ」「おふたりってよくそうやって一緒帰ってますよね」「つかもうバレてるし?」などという探りを愛想笑いで交わしながらビルのエントランスを抜ける。
 すると、例の件が柔らかなコートの前を合わせながら、まるで少女のように頬を染めて通りの前に立っていた。

「航汰!」

 高い声に喜色を滲ませ、久世目掛けて駆け寄る美女にその場の誰もが面食らったことだろう。

「ママ、来ちゃった」
「ま、ママ? てことは、久世のお母さん?」

 硬い表情の久世の前に息を弾ませママを名乗る女性は、驚く戸田さんに満面の笑みを向け、

「会社の方かしら。航汰がお世話になってます」

 と告げた。

「こんなところでお仕事してたのね。大きなビル。ねえ航汰、ママに案内して?」
「父からもうあなたに会わないよう言われています。俺ももう顔も見たくありませんので」

 普段にない久世の冷えきった声音と顔つきに、同僚たちも様子がおかしいことにすぐに気づいた。
 久世の父から「美耶子がいなくなった」と連絡があったのは、今から数時間前のことだ。自宅書斎にあった手提げの金庫がこじ開けられており、中にしまっておいた私の名刺がなくなっていたという。
 おそらく彼女はここに来る。私も久世も、それを覚悟していた。

「やだどうしたの航汰、そんな怖い顔して」

 そう言いながら、彼女が綺麗にネイルを整えた手で久世に触れようとしたところで、私は間に割り込んだ。

「やめてください。お父様から接触を禁じられているはずです」
「なんなのあなた、この間も航汰といたわよね。あなたみたいな人にとやかく言われる筋合いはないでしょ。私は航汰の母親なの」
「違います。俺はあなたを母と思ったことはありませんし、あなたにされたことも許すつもりはありません。それに、真咲さんはちゃんととやかく言う筋合いのある人ですから、あなたの方こそ弁えるべきだ」
「航汰、どうしてママにそんな酷いこと言うの? この女のせい!? そうなんでしょ」
「すべては俺の意思です。俺を支えてくれる真咲さんを侮辱するのは許さない」

 睨みつけられて怯み、彼女は途端、私に標的を変えて食ってかかった。

「あんたのせいね! アンタ、パパまで誑かして!」
「どう考えてもあなたご自身のせいでは、と思うものの、いまさら認識を正していただくのは難しいでしょう。私のせいで結構です。なぜなら私は航汰の妻になる女であって、お父様よりあなたを義理でも母と思うことはないと言われています。そういうことですので、金輪際二度と、私の航汰に近づかないで!」
「俺は真咲さんと幸せになります。ですから、あなたもどうぞ父とお幸せに」
「先程ご連絡しましたので、そのうちお迎えがくると思います。そこにカフェがありますので、暖かい場所でお待ちになってはいかがですか? それから、お父様からあなたが航汰の前に現れた場合、残念ながら離婚を考えざるを得ないと伝えるよう言付かっていますので、おふたりでよくお話しください」

 では、さようなら。
 唖然とする周囲を置き去りにして、久世と連れ立って通りを進む。絶対に振り返らない。いつの間にか、私たちは手を繋いで走り出していた。
 駅を過ぎても止まらずに、息を切らして私がよろけるまで。

「あははっ大丈夫ですか、真咲さん」

 十二月のイルミネーションで彩られた並木道で、肩で大きく息をしながら、なのにけらけら笑い合う私たちに行き交う人々は怪訝そうな目を向けていった。

「はぁっ大丈夫、ただ明日の出社が怖いことになったわ」
「結婚までバレましたもんねー!」
「ねー!」
「真咲さん」

 久世はそこでバッグを探ると、小さな箱を取り出した。

「秘密の二です。ずっと渡そうと思ってたんですけど、いまさらになっちゃってすみません。かっこつかないし、何もこんなとこでって思うでしょうけど、でも今がいい」

 小箱にはシンプルな石をひとつ嵌めた指輪が納められていた。久世はそれを外すと私の左手をとって薬指に慎重に忍ばせる。

「真咲さん! 俺と結婚してください!」
「はい!」
「絶対幸せにしますから、俺も幸せにしてください!」
「任せろ!」

 腕を広げた久世に抱きつくと、通りにいた人からパラパラと拍手が聞こえた。はっとして、思わず顔が熱くなり、久世を見遣れば彼もまた同じような顔をしていた。
 翌日のオフィスは出勤した時にはすでに騒然としており、覚悟はしていたものの私も久世も質問攻め。

「結婚してたんですか? それともこれから?」

 誰かからとんだその問に私と久世は顔を合わせた。

「婚姻届は出しましたよ」
「昨日ね」

 何事も勢いは大事。素っ頓狂な声を上げて驚く周囲に混じり、私は呆れたように首を折った谷原さんを見た。
 年明けか、長くても次の春にはチーム編成が変わるだろう。予算編成からなにから組み直しで面倒をかけるが、倫理観は終わっていても仕事はきっちりやる人だ。

「んだよ、いっつも事後報告じゃねぇかおまえらは。おめでとう!」

 喜田川の大声をきっかけにフロアには祝福の言葉が飛び交った。

「ありがとうございます! 真咲さん、愛してます!」

 久世はここぞとばかりに煌めいて、私も周りも目を焼かれた。


(おわり)

最後までお付き合いいただきありがとうございました。
以降はいくつか番外編を投稿の予定です。