(4)

 振り返れば、谷原さんが立っていた。

「えっ、あの──!」

 強引に手を引かれ、私は路肩に待たせていたらしいタクシーに押し込められた。足を踏ん張って抵抗したのに、最悪なことに片方ヒールが折れてほとんど転ける勢いで後部座席のドアが閉められる。

「やめてください! 何するんですか!」

 運転手は「こういうの、困るんですが」と白けた顔で告げたものの、谷原さんが万札を差し出すとそのまま車を発進させた。

「谷原さん!」

 私の声を無視した谷原さんは、平然とした様子で「今日は喜田川か」と車窓に一瞥をくれて言う。

「先に帰ると連絡を入れておくといい。俺が一緒だからと」
「こんなことされて、私だってさすがに出るところ出ますよ」
「そんな怖い顔をするなよ。こうでもしないと邪魔ばかりでふたりで話す機会もないだろう? これを最後にする。最後に、少しだけ一緒に過ごす時間が欲しい」
「最後……
「気持ちが焦ってしつこくしすぎた。仕事に支障がでそうだし、これでも反省して、謝る機会を窺っていた」

 谷原さんは声のトーンを落とし、私の足元へ目を向けた。

「とりあえず靴を買おう。降りた先にまだ開いている店があるはずだ」
「……降ろしていただいた先で、謝罪だけ受けて失礼します。靴も結構ですので」
「そういうわけにはいかない。弁償させてほしい」
「結構です」
「強情だな、ほんと」

 静かになった車内で、谷原さんはそれきり黙って窓の外を眺めていた。
 反省したという言葉は本当なのか。そもそも人を拉致同然で車に押し込めて置いて謝罪も何もと思うが、ともかくも私は久世と喜田川とのグループメッセージに、

<喜田川ごめん。谷原さんに拉致られた。が、謝罪したいとこのと。話だけ聞いて帰る>

 と送った。
 即座ひとつ着いた既読は喜田川だったのか電話が鳴り、出ようとするとそれは大きな手に阻まれた。

「出ないでくれないか。いま他の奴の声を聞きたくない」
「……どこに行くのかだけでも教えてください」

 途切れた着信に続いて、喜田川から矢継ぎ早にメッセージが届く。

<ごめんすまん目離した俺の責任>
<どこだ?>
<迎えいく>

 それに対して、私が<タクシー移動中。電話禁止らしい。場所不明>と返したところで、「この間──」と紡ぐ谷原さんの静かな声が耳に届いた。

「新幹線の中で、君にもたれて眠っただろう? 目が覚めてとてもスッキリした」
「……そうですか」
「避けずにいてくれたことが嬉しかった」
「避けようがなかったんです」
「君の隣は居心地がいい。どんなときも俺の期待に応えてくれる」
「仕事の話に限ります」
「ちゃんと会話もしてくれる。呼べば答える。そういう優しさが、羽多野のいいところだ」

 谷原さんから向けられる甘やかな視線から目を逸らし続ける中、先程からずっと手に握りしめるスマホが低い振動で着信を告げていた。
 ──航汰
 ややあって繁華街の傍で谷原さんはタクシーを停めた。
 差し出された手を取って車を降りると、彼は満足そうに微笑んでいた。

「近くのブティックがまだ開いているはずだ。その足ではやはり帰りにくいだろう?」

 引かれた腕を丁重に押し戻して、私は頭を下げた。

「大丈夫です。それより、こういったことは、本当にもうやめてください。これまで通り上司と部下として接していただければ、私は何も言いません。久世もそれはわかってくれます」

 髪に指が触れる感覚に顔を上げると、谷原さんの長い指先が耳の縁を撫でて私の輪郭を伝っていく。

「俺に可能性はひとつもない?」
「……お願いです。谷原さんは私の憧れの人なんです。入社してずっと、私は谷原さんの仕事を尊敬しています。褒められると嬉しくて、谷原さんに認められたくて必死にやってきた。ですから、どうかこれ以上、無様晒して幻滅させないでください。嫌いになりたくない」
「本当に……もっと早く俺のものにしておけばよかった」

 谷原さんの手は静かに離れ、私を見つめる瞳は寂しさがあった。

「わかって、いただけましたか」
「ああ……すまなかった。この悪い癖もどうにかしないといけないな。本当に惚れた相手から振られるとショックが大きい。田仲先生からも逃げられそうにないし」
「あはは……お似合いですよ、おふたり」
「これで終わりにするけれど、俺は不倫慣れてるから、君がちょっと他の男と遊びたいって時は歓迎するよ。覚えておいて」

 何言ってんだ、こいつ。

「谷原さん、仕事はあんなに出来るのに男としてはマジで終わってますよね。真正のクズとか無理です」

 私の心置きなく放たれた一言に、谷原さんは薄い笑みを張り付けたまましばし凍り付いた。上司相手に言い過ぎたか。

「……やっぱり好きだ」
「は」

 途端、谷原さんは目の色を変えて再び私に迫ってきた。急なことに驚いてバッグを間に挟み、押し付けるように距離をとるも、腕を強い力で掴まれて身動きがとれない。

「放して! 急に何ですか! 終わったんでしょ!?」
「自分でもこんな趣味があったとは思わなかった。とても胸にきた」
「はァ!?」
「君に鋭い言葉で罵られるのは悪くないみたいだ。俺は悪い男だ、叱ってくれ」
「何言って!? 性癖やばすぎんだろ!」

 バッグを押し付けもがいていると私を呼ぶ声がした。

「真咲さんッ!」
「真咲!」

 覚えのある声がふたり、息を切らして駆け寄ってきた。

「航汰! え、兄貴も?! なんで?」

 一瞬緩んだ谷原さんの手に彼を押しのけ、私はつんのめりながら久世に抱きついた。

「真咲さん! 大丈夫?」
「う、うん、これで最後だって話して、ちゃんとわかってもらったと思ったのに」
「谷原さん! アンタ、ほんといい加減にしろよ! これ以上は、会社にも正式に訴え出る。真咲さんは渡さない!」

 久世は私の肩をきつく抱きながら、谷原さんを睨みつけた。

「王子様はことごとく邪魔しにくるな」
「パートナー守るのは当然だろ!」
「谷原さん、さっきも似たようなこと言いましたけど、私、これからも谷原さんを尊敬したままでいたいです! だからもう──」
「真咲!」

 話の途中で割って入ってきたのは兄だった。

「この人が、谷原さんなの?」
「は、え……?」
「この人が! 谷原さんなのね!」

 兄は拳を握り締め、顔を紅潮していた。
 久世と共に駆け付けてくれたから、あるいは妹が襲われかけたことに憤怒しているのか。兄貴、やっぱり──

「びっくりするくらい、いい、男ね……」
「……なんて?」

 全員が耳を疑う中、兄はときめきに頬を赤らめて喉を鳴らした。
 というか、久世は私にスマホから位置情報を探索できるトラッカー装置、いわゆる迷子タグを持たせていたから居場所がわかったのだが、なぜ兄貴までもがここにいるのだろう。

「航ちゃんからさっきちょっと話は聞いたんだけど、まさかこんないい男だとは思わなくて、ヤダどうしよ熱くなってきた。好みのど真ん中だわ。すごい色気」

 こいつは何を言っているのか。久世までもが戸惑う中、兄はじりじりと谷原さんに近づいていく。

「はじめましてぇ。妹がいつもお世話になっておりますぅ、あ、アタシ、この子の兄で、フリーのバイっていうかアッやだやだつい言っちゃった! なんか話を聞く限り真咲のことを気に入ってくれてるみたいなんだけどほらァこの子もう結婚するから、そんな女より、この通りの血縁なんで顔も似てるとこあるし? アタシなんてどうかしら? なァんて?」
「な……」
「谷原さん、下のお名前なんておっしゃるの? アタシのことはリョウって呼んで?」

 恐ろしい速度と手管で兄は谷原さんの手を取ってするりと腰に腕を回した。

「あら、もしかして緊張してる? おいくつ? 男慣れはしてないのかな。かわい」

 高身長の谷原さんと並ぶ兄が彼の耳元にそっと囁いた瞬間、谷原さんの顔が引きつったのがわかった。

「は、羽多野……こちらは、お兄さん?」
「はい……すみません、馴れ馴れしくてすみません」

 実兄です。
 途端谷原さんは見たこともない緊張した面持ちで兄を無理やり引き離した。

「久世、羽多野は少し話をしようとした際、靴が壊れたので弁償を申し出てタクシーに同乗してもらった。羽多野、これまでのことには誤解があったようで本当に申し訳ない。これからも上司として君の仕事に協力することで、許しをくれた君の寛大な心に報いていきたいと思う。ではお疲れさま」

「は?」とは久世、「え?」とは私の口から思わず零れた。

「ねぇ谷原さん? よかったらこれから呑みません? お互いのことよォく知り合うために」
「申し訳ありませんが、今夜はこれで」
「お忙しいのね、明日は?」
「失礼、一生忙しいもので」
「ヤダァお身体大丈夫です? 運命ビビっと感じません?」

 追いすがる兄を振りほどき、谷原さんは逃げるようにタクシーを拾って走り去っていった。

「チッ、つまんねぇ男だな」

 低く言い捨てた兄を唖然として眺めていたが、ふと我に返った。

「いや、なにやってんの!? なんでこの状況で迫ってんの!」
「だってあんな艶っぽい男滅多にいないでしょ?! 航ちゃんと同じで頭の形がいいから、ちょっと気になっただけ。職業病だから仕方ないの! 尾っぽ巻いて逃げたんだから結果オーライじゃない!」
「ありがとうって言いづらいだろバカ兄貴!」
「兄貴って言うんじゃねぇ!」
「あ、あのっ! リョウちゃんさん、ありがとうなのかよくわからないですけど、とにかくありがとうございました! 真咲さん守ってくれて」

 慌てて割って入った久世は私と兄を無理やり引き離した。

「航ちゃん、いいのよ。航ちゃんこそ、かっこよかったわ。真咲のこと守ってくれてありがとね」
「いえ、真咲さんを守るのは俺の役目です」
「航汰、ありがとう……ていうか、なんで兄貴」
「あ?」
「なんでそもそもリョウちゃんが航汰と一緒にいたの? 航汰の秘密の予定って、リョウちゃんと会うこと?」
「実は、リョウちゃんさんに、真咲さんと一緒に住む引越し先の相談に乗ってもらってたんです。結婚するなら思い切ってふたりでマンション買ってもいいのかなとか、賃貸のほうが便利かなとか。相場もよくわからないんで、情報収集したくて。下手な不動産屋よりリョウちゃんさんのほうが詳しいでしょ」
「なんだ、そういう」
「そ。航ちゃんこっちのほうで用事あるって言うし、アタシも仕事でこの辺りまで出る予定あったから帰りがけにどぉ、って落ち合ってたわけ。で、あんたが最近ヤバい上司からタゲられてるって話聞いてたらこんな事になってびっくりぽんよ。久しぶりに全力疾走したわ。航ちゃんマジ早くて見失うかと思ったし、近くて助かった」
「ありがと……リョウちゃん」
「真咲が迷子タグつけられてるとかほんとウケるけど、無事でよかったわ。それから、ふたりで住むマンションならアタシのほうで宛があるから、そこも見て、自分たちで探すでも買うでも好きにしたらいい。アドバイスはするけど、アタシの知識はあくまで投資目的だから、住むとなれば生活圏とか色々あるし、それ相応の専門家をちゃんと紹介する」
「今日、いろいろと資料もらったんです。これが秘密一ですよ」
「そう……そうか、ほんとありがとう。何から何まで」
「大事な妹が結婚するっていうんだから当然でしょ。相手が航ちゃんなら、なおのこと祝福するわ。……というか、あんた、靴どうすんの?」

 谷原さんはあの日以来、本当に私への必要以上の接触を止めた。
 どうやら根っからのハンターは獲物を追うことには燃えるが、追われることになるのは苦手であるらしく、私の兄から迫られることになるのなら、大人しく田仲先生の手の内に収まっておこうと判断したのだろう。たぶん、兄はあの一瞬で谷原さんに消えることの無い強いストレスを与えたに違いない。
  
 未練はあるのか、谷原さんは時折不意に私に向かって手を伸ばし、けれども私の奥に兄の影を見て思わず手を引っこめる。これには言いようのない腹立たしさがあるのだが、久世も喜田川もこの話をする度に笑うし、兄の言う通り結果オーライなのだと思うことにした。

「谷原さぁん、このあとアタシと予定通りに打ち合わせよろしくって?」
「喜田川、その話し方を即刻やめろ。嫌悪感がある」
「うーっす」

 ちなみに、喜田川は相当ムカついたらしく、谷原さんに一生この出来事を当てこすることにしたという。