(4)

 気持ちのいい晴天に恵まれた箱根を散策し、食べ歩きをしたり、面白いものを見つけては写真を撮ったり。私たちは誰にも憚らず手をつなぎ寄り添って、目を合わせては笑い合った。

 衝撃的な邂逅は、絶対にやるんだと意気込む久世に引きずられ訪れた美術館で、くそほど恥ずかしい想いをしながら誓いの鐘をふたりで鳴らした帰り道のことだった。

「表なんだからいきなりキスすんな。後ろの人たちに見られたじゃん!」

 見事な庭園を縫うように敷かれた石畳を歩きながら抗議の声を上げる。

「俺らに倣って後ろのカップルも鐘ならしてキスしてましたよ。いいお手本になりましたねえ」
「ったくもぉ……」
「真咲さんがあんまりにもかわいくて。我慢できなかったんです。いい歳して恥ずかしいとか言ってたのにしっかりお祈りしてたでしょ? 何お願いしてたんですか?」
「内緒です」
「えーっ。俺は、来世もその先も真咲さんと一緒にいられますようにってお願いしましたよ」
「あまりの重さに誓いの鐘も困惑だろうよ」
「で、何を願ったんです? 教えてくださいよ」
「健康」
「初詣なの?」
「……嘘。ちゃんとお願いしたよ。この先も、航汰といられるようにって。お願いって言うか、決意みたいな」
「かっこいい……」
「鐘にできることなど高が知れている」
「俺も今度からお願いじゃなくて決意表明の場にします」

 久世がそう言ってきりりと顔を作ったところで、前からやってきたカップルと行き会った。狭い小道をすれ違うのに手を引かれ、久世に寄り添ったところで、私たちと彼らは目が合ってしまった。

「……え……」

 ──うそでしょ。

 私も久世も絶句した。なぜなら、目の前にいた美しき大人の雰囲気が漂うカップルは、まぎれもなく、統括マネージャーの谷原さんとベテラン講師の田仲先生だったのだから。



 温かなコーヒーを前にして、私と久世は向かいの席をなかなか見上げられずにいた。背中を冷や汗が伝っていく。

「ほんと仲がいいし、久世くんもずいぶん懐いていると思っていたけど、あなたたちそういう関係だったのね」
「は、はぁ……」
「羽多野さんなら当然いい人がいるんだろうなと思ってたのよ。谷原くんは知ってたの?」

 促されるまま館内のカフェに場を移し、あらあらと微笑む田仲先生は、至極普段通りの調子でこれまた普段通りに見える谷原さんに話を向けた。

「いえ。俺も先日の社員旅行で、羽多野を変えた秘密の恋人の存在を知ったばかりです。ただ、本人から探るなと牽制されてしまったもので」
「あら」
「久世が羽多野に惚れているのは気づいていましたし、気安い様子に怪しんではいたものの、確証がなかった」

 切れ長の目が私を見据えてわずかに眇められ、薄い唇が笑う。

「惚れるなという俺の忠告は無視されてしまったようですが、結果を見る限り、言いつけの通りに羽多野は上手く立ち回っていたようだ」
「……ッ、個人的なことですので、業務上ご迷惑はおかけしていないものと」
「今はね」
「これからも、そのつもりです」
「あのッ!」久世は椅子を鳴らして身を乗り出した。「谷原さんのことです。お分かりだとは思いますが、僕が関係を迫りました。羽多野さんは仕事に影響することを危惧されていましたが、それでも僕が何度も口説きました」
「いつから?」
「夏、ぐらいから……四か月ほどになります」

 久世の言葉に谷原さんは深く息をこぼす。

「相田はともかく、他の社員がおまえに必要以上にまとわりつかないようになったのは、上司が一目置かれた羽多野だったからだ。それをおまえ自身が崩すとは」
「ずっと羽多野さんだけを必要としていたので……」
「自分の影響力をわかっていないな。これまでおまえの気持ちなどお構いなしに、おまえの存在を巡って周囲が感情的に衝突し、結果少なくない人間の関係性がこじれ、退職していった者もいた。会社はビジネスの場であって色恋の場ではないのだから、馬鹿ばかしくてならない」
「そんなの僕が一番思っていますよ。僕は仕事しに来てんだから放っておいてくれって」
「上司に手を出しておいて、おまえが言えた立場ではないだろう。おまえと羽多野の関係が明るみに出れば、羽多野にくだらないやっかみが集中する。そんなことで彼女が疲弊するのを俺は望まない」
「それは……それは、ほんと、くだらないです」

 言って、久世は私の手を掴んだ。

「同感ですよ。僕もそういうくだらないことで羽多野さんを煩わせたくないから、成果で示しているんです。羽多野さんは──真咲さんは俺の原動力で、彼女のマネジメントが俺の能力を高めてくれてます。文句なしのリーダーで、最適なパートナーです」

 痛いくらい握られた手に、私は久世の成果が才能だけでなく、努力によってなっていることを思い返した。初めは面倒な奴に好かれたと思った。でも久世は本気で私の立場を思って、誰にも文句を言わせないようにと、ずっと──

「私からも一言弁明させていただいてよろしいでしょうか」
「真咲さん……」
「どっちが口説いたとか、起きてもいないトラブルのことは正直どうでもいいです。谷原さんがおっしゃる通りに、会社はビジネスの場であると私も理解しています。ご懸念の点はごもっともでしょうし、お気遣いくださってありがとうございます。ただ、もはや引き返すことはできませんし、私は彼を手放すつもりも、自分から身を引くつもりも毛頭ありません」

 繋がれた久世の手を握り返し、私は谷原さんをまっすぐ見据えた。

「どうか現状を見てください。交際していても、部門が混乱するようなトラブルは起きていません。メンバーとも友好的な関係を築いて、久世ははっきりと成果を示しています。私も彼を上司としてサポートしていますし、他の部下に対しても贔屓せず同じように力を尽くしています。久世と交際することで私にくだらないやっかみが集中するとおっしゃるのなら、谷原さんのお手を煩わせる前に蹴散らしてやりますのでご心配なく」

 目の前の上司の眉間に静かに力がこもるのがわかった。

「まぁ素敵ねぇ!」

 はしゃいだような黄色い声にはっとしたところで、耳にようやく店内の穏やかなBGMが流れ込んできた。
 田仲さんは頬の横で手を重ね、

「聞いたぁ? 谷原くん、蹴散らしてやりますですって。逞しい」

と うっとりしている。

「いいじゃない。想い合うふたりに、外野がどうのこうのいうなんて野暮だわ」
「田仲先生」
「浮ついた気持ちでお付き合いしているようには見えないし、羽多野さんの下についてからの久世くんの働きにはあなただって文句ないでしょ? 羽多野さん自身もマネジメントの態度に公私混同はない。他のメンバーとの差異もない。ないから谷原くんも確証がなかったんだものね」
「ええ、まぁ」
「なら何も問題ないわ。社内恋愛は禁止じゃないんだから、これからもがんばってねって、わたしは応援する」
「あ、ありがとうございます!」

 久世と目を合わせると、強張っていた彼の目元がようやく和んだ。

「第一、不倫旅行目撃されといて、ふたりの関係をどうこう言えるような立場にないもの。やんなっちゃうわぁ」

 それなぁ……。
 谷原さんが独身であることは知っていたが、田仲先生は普段左手の薬指に指輪をはめているから既婚者なのだと思っていた。会社の上層部のみんなで箱根でワハハというわけでもなさそうで、明らかにプライベートの気配があったが、大変なところに遭遇してしまったというわけである。

「恥ずかしい話なんだけど、わたしの旦那にはずっと愛人さんがいるのよ。離婚を考えてはいるものの、いろいろとしがらみもあるからおいそれとはいかなくて。だからわたしも好きにさせてもらってたの。身近なところに悪い男がいたものだから」

 視線で示された悪い男は、田仲さんを見つめてにこりと笑っただけだった。

「でも、今回の旅行で最後なのよ。フラれちゃって。わたしなりに谷原くんのことは好きだったから、いい思い出をつくりましょうって誘ったの」
「そ、そうですか……」
「谷原くんにも久世くんみたいな一途な情熱があれば、話は違っていたのかもしれないわね」

 お茶目なウィンクが飛んで久世は怯えたように私にそっと身を寄せた。

「あらかわいい。ほんと羽多野さんのことが好きなのねえ。わたしも今度は久世くんみたいな若くてかわいい子にしようかしら。誰かお友達にいない? 魔女に取って喰われてもいいって子」
「へっ、あ……あの、僕、ともだち、少ないので」
「久世くん自身は? 年上好きなんでしょ? わたし、三百年くらい生きてるけど」

 久世は田仲先生の高笑いの前にますます私の影に隠れた。

「先生……どうかそのへんで」
「冗談よ。フラれたせいでやけっぱちになってるの。ごめんなさいね。ともかくも、この件はお互いの胸にしまっておきましょう。はい、おしまい」

 見る限り、田仲先生は谷原さんとの別れに未練があるようだった。
 
 ──気になる子ができたから別れたいなんて殊勝なこと言ってたけど、こんなおっかない男に目を付けられたお相手はご愁傷様だわ。人のもの奪い取るのが好きだから、どうせまた不倫か何かでしょ。

 別れ際、私にそんな密かな愚痴を吐き、田仲先生は谷原さんを連れて去っていった。これから誓いの鐘を鳴らしに行くらしい。どういう神経かはわからない。

「……なんか」
「……疲れましたね」

 私も久世もぐったりして、顔を見合わせると頷きあい、そのまま宿に向かうことにした。