上京

昭和53年、ひとりの若者が大東京の地に初めて足を踏み入れた。東京は、中学に上がった頃からずっと憧れていた場所だった。「高校を卒業したら東京に行くんや」と心に決めていた。そして、ついにその夢が叶った。新幹線の中で隣の席に座っていたのは、60歳くらいのおばあちゃんだった。おばあちゃんが「東京出て何するんや」と尋ねてきた。私は、小声で「テレビカメラマンになるんや」と答えた。思えば、高校を卒業してすぐに就職するつもりだったが、二社連続で不採用の通知を受け、就職を断念した。それから、テレビカメラマンを目指すことに決めたが、それは当時のアイドルオタクとしての熱狂が、まるで神のお告げのように導いた選択だったのかもしれない。運命を導いたのは、北九州・小倉のレコード店の店長だった。行きつけのその店で、ある日店長が「おめでとう」と声をかけてきた。何のことだろうと思っていると、福岡市で開催される総勢30人のアイドル祭りのチケットが当たったという。店長が密かに応募してくれていたのだ。出演者には武田鉄矢、榊原郁恵、伊藤咲子、そして安藤ユキコといった豪華メンバーが名を連ねていた。会場はディナー形式で行われた。ユキコちゃんがオレンジジュースの入ったコップを持って近づいてきた。その瞬間、まるで時間が止まったかのように感じた。彼女の笑顔がまぶしく、憧れの存在が目の前にいるという現実が信じられなかった。ユキコちゃんは軽やかに微笑みながら、目の前にコップを差し出した。
「どうぞ、よかったらこれ、飲んでくださいね。」
その声はテレビで聞いたままのやさしい響きだった。緊張で喉がカラカラだった僕は、無意識のうちにコップを受け取り、ユキコちゃんと視線を交わした。何か言わなければ、と思いつつも言葉が出てこない。
「今日は楽しんでくれてる?」とユキコちゃんが尋ねる。
「は、はい!すごく楽しんでます!」やっとの思いで声を絞り出す。
その瞬間、彼女はさらに微笑み、周りの空気が温かくなった気がした。数年後、安藤ユキコと再会するなんて、この時には夢にも思っていなかった。次の日、安藤ユキコのオンステージが福岡市の香椎スーパーで行われる。私はディナーショーに参加するため、全日空ホテルから電車を乗り継いで会場へと向かう。香椎駅から徒歩で歩いていると信号が赤の交差点に差し掛かった。立ち止まっていると横にタクシーが止まる。乗っているのは安藤ユキコだ。私は思わず手を差し伸ばし握手をしたのであった。おばあちゃんは世田谷区の娘の家へ行く途中で、東京駅から渋谷駅まで案内してくれた。私は東京北区にある滝野川まで行く道のりだ。渋谷駅から赤羽線に乗り継ぐ。電車の中は、通勤ラッシュに差し掛かり、満員の車両が揺れていた。人々は立ち並び、つり革を掴む手や、座っている人の膝の上に置かれたバッグが見える。周囲にはスーツ姿のビジネスマンや、カジュアルな服装の学生たちが混在し、それぞれの目的地へ向かうために静かに時を待っている。車両の内装は、清潔感のある白を基調にした壁に、窓際には広告が貼られている。窓からは流れる景色が見え、時折、青空とともに高層ビルや街並みが目に入る。車両が揺れるたびに、人々の体が互いに押し合い、時には誰かの足が踏まれることもあるが、みんな無言で耐えている。息苦しいほどの密集感の中で、誰もが自分の世界に没頭している様子だ。ドアが開くたびに、乗客が入れ替わり、新たな顔が車両に流れ込んでくる。急いでいるのか、焦った様子で車両に乗り込む人もいれば、のんびりとした表情で座席を探す人もいる。駅のアナウンスが響くたびに、乗客たちが意識を戻し、目的地が近づくのを待っている。滝野川駅に降り立つ。改札口を抜けると、すぐに商店街の中心地に出た。賑やかな声や買い物客の足音が響き渡り、様々な店舗が並ぶ光景が目に飛び込んでくる。鮮やかな看板や通りを行き交う人々の笑顔が、温かい雰囲気を醸し出していた。徒歩で30分ほど歩くと、新聞販売店の看板が見えてきた。ここが、就職先だ。身分は新聞奨学生。新しい職場に向かう道すがら、心の中には期待と緊張が入り混じっていた。新聞販売店の扉を開けると、軽やかなベルの音が鳴り響く。中に入ると、店内は所狭しと並んだ新聞や雑誌で溢れており、独特の紙の香りが漂っていた。棚には最新の新聞が積まれ、色とりどりの雑誌が目を引く。店主は温かい笑顔で迎えてくれ、私は自己紹介をしながら、これからの仕事について少しずつ教わることになった。彼の言葉には経験に裏打ちされた深い知識があり、業界の話や仕事の進め方について聞くうちに、ますますやる気が湧いてきた。店内の賑やかさや、新聞を求めるお客さんの姿を見ると、ここでの生活がどんなものになるのか、楽しみでならなかった。
販売店に着くと、目を引く大きなポスターが貼られていた。それは安藤ユキコのポスターで、彼女の魅力が鮮やかに描かれていた。ユキコの魅力は、まずその純粋な輝きと人懐っこさだ。静岡県出身の彼女は、自然体で人と接し、笑顔で周囲を温かく包み込む力を持っている。ミツミプロスカウトキャラバンの初代チャンピオンとして鮮烈にデビュー。
販売店に着くと、二階にある主任の部屋に案内された。仕事は明後日から始まるため、その晩は緊張が解けてぐっすり眠ることができた。翌朝、目を覚ますと、先輩たちが朝食をとっていたので、その席に加わった。すると、先輩のひとりがニヤリとしながら質問してきた。
「昨夜の布団、どうだった?」
何かあるのかと尋ねると、先輩は笑いながら「実はダニが棲みついてるんだ」と答えた。その言葉に、少し身震いしながらも、皆で笑いあう和やかな空気が広がった。その後、仕事の準備を進めるため、店内を案内してもらうことになった。新聞の仕分けや配達のルートを覚えることはもちろん大事だが、それ以上に大切なのは、先輩たちとのコミュニケーションだった。その日の午後、先輩たちに連れられて、新聞配達のルートを下見することになった。滝野川の街は思っていたよりも広く、曲がりくねった細い路地や急な坂道が多かった。自転車で回るには体力が必要そうだと感じながらも、これが自分の新しい日常になるんだ、と気持ちを引き締めた。先輩たちは慣れた様子で軽快に自転車を漕ぎながら、道順や配達先の特徴を教えてくれた。道端で挨拶を交わす人々の顔には、どこか親しみがあり、この地域の温かさが伝わってくる。配達ルートの確認を終えた頃には夕方になっていた。店に戻ると、主任が「明日から本格的に始めるぞ」と声をかけてくれた。その一言に、期待と不安が入り混じった感情が胸に湧き上がる。その夜もまた早めに布団に入った。ダニの話が少し気になったが、疲れが勝って、すぐに眠りに落ちた。翌朝、まだ暗い時間に目覚まし時計の音で起きると、店内はすでに忙しさに包まれていた。新聞の山が次々と運び込まれ、店の中は独特の紙の匂いで満たされている。先輩たちは手際よく新聞を仕分けていき、私はその動きを必死で追いかけた。初めての配達は、やはり緊張の連続だった。道に迷いそうになるたびに、事前に下見したルートを頭の中で思い出し、何とか指定された家に新聞を届けていく。夜明け前の静かな街に、自転車の音だけが響き、時折すれ違う早朝のランナーや犬の散歩をしている人々が目に入る。配達を終えた頃には、空はすっかり明るくなり、朝の清々しい風が肌をなでた。初日を終えて店に戻ると、先輩たちが笑顔で「お疲れさん」と声をかけてくれた。身体はクタクタだったが、達成感と少しの自信が心に広がっていた。これからの日々が少しずつ形作られていくのだと感じ、胸が高鳴った。