「ローラったら、金魚みたいよ…その口……」

 マリアンヌの侍女であるローラは酸素が足りない金魚になったかの様に暫く口をパクパクさせていた。

 「――ふむ。この現象は私の護衛騎士のルイスにもよく現れる現象だな。恐らくまだ頭の中に現実を受け入れる隙間がないのが原因だ」

 ――テオドールが冷静に分析をしているその時、客間の扉がバンと勢いよく開いた。

 眼鏡をかけた無表情の大変美丈夫な騎士が、つかつかと部屋に入って来る。

 「私が何ですって? 言っておきますが私がこの侍女さんの立場だったら金魚じゃなくて鯉になっていますよ」

 マリアンヌは突然部屋にノックもなしに乱入してきた長髪の護衛騎士に驚いていた。

 大公家にも護衛騎士はいるが主人に従順に従うことが当然で、友達の様にくだけた話し方をする筈もなく、ましてや客間に乱入する様な事などあり得なかったのだ。

 「ルイス、断りもなくいきなり入って来るとは……お前は護衛騎士としては失格だな。すまない、マリアンヌ……。この男は私の護衛騎士で、人手不足もあり私の片腕として様々な業務を任せている。幼少期からずっと一緒で主従関係を理解出来ない変人だ」

マリアンヌは慌ててお辞儀をする。
「まぁ…テオドール様の幼馴染の方なのですね? わたくしは、ピレーネ公国の……」

「はい、既に把握しておりますのでご挨拶や回りくどいご説明は大丈夫ですよ? 貴女は我が主君、テオドール殿下の婚約者となるかもしれないマリアンヌ様、まだ離縁されていないのでマリアンヌ様、とお呼び致します。私の事も気軽にルイス、とお呼び下さい」

「ルイス、かもしれないではなく婚約者となる事が決まった方だ」

 テオドールが氷の様な瞳で睨みつけても、ルイスは全く気にしていない様子だ。
 眼鏡をカチャリ、とかけ直すと無表情のままテオドールに説明を始めた。

 「先程の侍女さんへのご説明を補足致します。殿下は恐らくこれまでの人生で鯉だの金魚におなりになった事など無いでしょう。驚きのあまり空気がなくなってしまう現象など……」

 マリアンヌは、冷静沈着無表情で失礼なもの言いをするこの護衛騎士が新鮮で面白いと思ってしまった。

 「あの……金魚は知っていますが鯉、とは?」

 ローラがおずおずと尋ねる。

 「あらっ。ローラも知らないのね? 実は私も見た事が無くて。お魚の種類みたいね?」

 マリアンヌも鯉は見た事がない。

 すると、ルイスがマリアンヌを冷たい瞳で見下ろした。

 「ほう……妃殿下ともあろうお方が鯉を見た事が無いとは……意外ですね。鯉とは最近王都の貴族達に大変人気の魚でございます」

 「まあっ。そのお魚は美味しいのですか?」

 ローラが思わず口を挿んだ。

 ローラの質問にルイスが無表情で答える。

 「――食べても美味しいのかもしれませんが、彼らは観賞用に自分達の庭園の池に鯉を泳がせて鑑賞しているのでございます。因みにこの屋敷にある庭園の池にもおりますので、後程ご案内致しましょう」


 「はいっ。是非見に行きたいです!」


 ――テオドールは鯉を見た事が無い、と無邪気に話すマリアンヌをじっと見つめた。

 王都で今流行している鯉は、社交の場でも話題に上っているし夜会に行けば必ず自慢の庭園をライトアップして鯉の鑑賞会が始まる程なのに。

 そういえば、これ程目を引く美しい女性は一度見たら覚えている筈なのにテオドールはこの美しいマリアンヌを結婚前も結婚後も見た事が無い。

 (なるほど……。婚姻前、スタンリー侯爵家の令嬢だった時には義父であるスタンリー侯爵から、婚姻後はアレクシスとかいう馬鹿な大公に徹底的に隠されていた、と言う訳か)


 無表情のルイスから鯉についての説明を聞いていたローラが、ハッと我に返った。
 「はっ…うっかり鯉の話題で盛り上がってしまいましたが、妃殿下! 一体どういう事なのかご説明下さい!」

 マリアンヌはローラをじっと見つめた。

 「ローラ。アレクシスはミレーヌに私の部屋を使わせるつもりよ。新しい部屋は使用人部屋の隣になるんですって。私だけならどんな屈辱も耐えていこうと思っていたけれど…私には可愛いエリーンがいるわ。この子を絶対に不幸にはしたくない。この子にあんな人が父親だなんて思って欲しくないの。使用人達から馬鹿にされる母親の姿も見せたくないわ!」

 ローラが驚いて目を見張った。

 「なっ……何てことを! でも妙です! 実は今朝早くに家具職人がこれまでお使いだったマリアンヌ様の寝室に立派なゆりかごを運び込んでいたのです。私は大公殿下が謝罪の気持ちでゆりかごを贈ったのかと……!」


 マリアンヌはローラの言葉に青ざめた。

 夫、アレクシスは狡猾で幼稚な一面がある。
 彼はマリアンヌに腹を立てると決まってお仕置きという名のもと、酷い仕返しをするのだ。

 そう。

 マリアンヌの性格を知り尽くしているからこそ、マリアンヌが最も心にダメージを抱える方法を考えだすのだ。

 それは言葉だったり自由を奪う事だったり、あるいは彼への謝罪と反省文を書かせる事だったり……。


 マリアンヌは唇を噛み締めた。

 回帰前、マリアンヌは生まれてきた子が黒髪だったという理由でお仕置きと称して親子共々暗く陽が当たらない寒い部屋に押し込められた。

 (でもアレクシスは回帰前よりも私に対して腹を立てている)

 そんなマリアンヌの事情は全く分からないローラはマリアンヌに訴える。

 「ですから……大公殿下も、妃殿下に怒りに任せて仰った言葉を後悔されているのでは?」


 アレクシスの最もずる賢いのは、裏ではマリアンヌを貶めるくせに表では使用人たちに対して理解ある夫、傷ついた夫、後悔して反省している夫を演じてみせるのだ。

 「ローラ。貴女は間違っているわ……。アレクシスは反省も後悔もする人ではないの。これまでだってそうだったわ。私が悪阻で苦しんでいる時にも暴言を吐いて……そのあと彼が取った行動は? 暴言を吐いたお詫びにと私の世話をする友人を招き入れたわね」

 「? は、はい。でもまさか、その……妃殿下のご友人と大公殿下があの様なご関係になるとは私達も気づかずに……」

 マリアンヌは溜息をついた。

 「ミレーヌは、私の友人なんかじゃありません。顔も知らなかった。アレクシスはあの時はっきりとお仕置きの為に連れて来た女性だと私に囁いたわ。あの子は初めから夫の愛人だったのよ」

 ローラが青ざめる。

 「そ、そんな……。ではあの令嬢は始めから……? それでは、ゆりかごがあの部屋に届いたのはどういう意味なのでしょうか」

 マリアンヌはギュッと目を瞑った。

 (信じたくない……。信じたくないけれど……)


 2人のやり取りを見つめていたルイスがポケットから書信を広げて眼鏡をカチャリとかけ直す。

 「――先程通信魔道具での書信が届きましたのでお読みになりますか?」

 「通信魔道具ですって?」

 マリアンヌとローラが驚いて一緒に声を上げた。

 「はい……。テオドール殿下がそこの子ウサギ……ゴホゴホ……いえ、妃殿下とご結婚したいなどと仰るので、我々としましても事前情報が知りたいと思いましてピレーネ大公家に密偵を忍ばせ、何かあれば知らせる様にと通信魔道具を渡しました」

 通信魔道具はとても高い魔力を持った人間が羊皮紙に魔力を込めて作る。

 この通信魔道具は二人の人間が使うもので、書いた文章がもう一人の人間の持つ魔道具の羊皮紙に写り込み遠く離れた場所であっても手紙のやり取りが瞬時に出来るのだ。

 主に戦争の時に使われたりしていた。

 (その希少な通信魔道具を何故大公家の様子なんかに?)

 マリアンヌは驚いてルイスを見つめたが、確かに得体のしれない自分を探るには仕方の無い事だと理解した。

 マリアンヌはローラと一緒に書信を読み始めた。

 『大公家では使用人部屋の隣の部屋に大公妃のドレスや家具が運ばれている。お仕置きという言葉を使い、大公妃が産んだ子供は今後ミレーヌ子爵令嬢が乳母と共に育てると発表された。大公妃は反省の色が見えたら大公の許可した時間のみ子供に会える。反省とは、大公妃が新たに大公にそっくりな子を産んだ時という意味だ』

 マリアンヌはゾッとして書信を落とした。

 (そんな……! エリーンを産んだばかりの私にもう次の子をだなんて。しかもアレクシスそっくりの子が生まれるまでエリーンに会えないだなんて!)

 ――バキン――

 執務机を叩き割る音が聞こえる。

 振り向いたマリアンヌの瞳に、怒りに燃えたテオドールの姿が映った。