真っ赤なトマトみたいな顔の婦人を眺めながら、テオドールはクスリと笑った。

 大公妃とは名ばかりの冷遇っぷり。
 お人好しが顔から滲み出ている。

 こんな状態では赤子を抱えて大公家を出たとしてもまた誰かの餌食になり兼ねない。
 暗い森の中ではたとえ大金を抱えていたとしても、結局は狼の群れに襲われてしまう。

 ――私に似た境遇の人間は何人も見てきたのだが、何故かこの女性から目が離せない。

 不思議な人だ。

 青みがかった美しい銀色の髪、大きな菫色の瞳は儚げなのに強い意志を秘めている。
 男なら誰でも一瞬で心を奪われてしまいそうな程の美しい女性を妻にしておきながら、馬鹿な男だ。

 つい考え事をしていると、マリアンヌが動揺しながら説明を求めている。

 テオドールは必死にこちらを見つめるマリアンヌが怯えた小さな子ウサギに見えた。

 (可愛い……)

 なるほど……。
 少し分かる気もする。

 この可愛らしい子ウサギを閉じ込めて意のままにしたい欲望を持ったスタンリー侯爵。
 折角捕まえた子ウサギを更に惨めにして、自分だけが主人だと洗脳しようとした今の夫。

 どちらにしても、この人は救われない。

 離縁しても安心して戻れる実家が無いマリアンヌ。
 そもそも、ピレーネ公国のアレクシスとかいう男には離縁の意志等あるのか?


 「魔晶石は買うのではなく、必要な時に私が借りる。マリアンヌ……とこれからは呼ばせて欲しい。恐らく貴女の夫は離縁に応じない。スタンリー侯爵からの支援金が途絶えたとしても変わらずに貴女を閉じ込める積もりだ」

 マリアンヌが真っ青になっている。

 言い過ぎたか……?


 「なっ……何故そう思うのですか? わたくしは、妊娠してからずっと女性として扱われてきませんでした。冷遇され続けたわたくしを、アレクシスが執着するとは到底思えません!」

 テオドールは跪き、マリアンヌの手の甲にキスをした。

 「――貴女はまだ自分の価値に気付いていない。私が夫となり、貴女と子供を守る。勿論、貴女が1人でエリーンを守る力をつけるまで。貴女に相応しいお相手が見つかった時には身を引こう」

 マリアンヌの手の甲に唇を寄せながら、テオドールが見上げるとマリアンヌは戸惑いながら、それでも真っ赤な顔でコクリと頷いた。


 ***


 テオドール皇子の爆弾発言にマリアンヌは動揺していた。
 動揺しながらも、マリアンヌは今聞いたテオドール皇子の言葉の意味を噛み締めていた。

 (悔しいけれど、そうかもしれない。もしも、アレクシスが離縁に応じなかったら?)

 それに……もしも離縁に応じる気が無いならエリーンを人質にし兼ねない。
 離縁するなら後継者のエリーンを置いていけ、とか……。

 テオドール皇子と契約結婚するとしても、先ずはあの男と正式に離縁しないと!

 「あの……ではもしも、アレクシスが離縁に応じない時は?」

 テオドール皇子は暫く考えたあと、にっこりと微笑んでとんでもない事を言い出した。

 「では……。エリーンは私と貴女の子供だという事にしては? 既に自分の子ではないと公言されている様だし」

 アレクシスはプライドの高い男だ。
 でも、私達親子の事情にこの方をこれ以上巻き込んで良いのだろうか。

 「――もしかして私がエリーンの父親になるのが不安とか?」

 私は回帰前、娘を殺しに来たテオドール皇子の顔を思い出していた。
 とても悲しそうな顔をしていたわ。

 皇帝から命令されただけで、エリーンを本気で処刑したいとは思っていなかったのだと思う。

 これから近くで毎日エリーンが成長する可愛らしい姿を見せれば……。

 心優しいテオドール皇子は、エリーンを大切に思って下さるだろう。

 この方がエリーンを大切にして下さればいつかエリーンが怪物公女になったとしても……皇帝から命令されたとしても……殺しはしない筈!

 でも、これは私の身勝手な理由だ。
 余りにも図々しい。

 「返事が無い……という事は嫌……という事だろうか」

 私は慌てて首を振る。

 「そ、そんな事ありませんわ! でも、どう考えても殿下には全く利益にならないじゃないですか……! 再婚して子供までいるとか……」

 この帝国の第三皇子の結婚相手が私では……。

 しかも自分の子でもないのに偽ってまで?

 「――私は誰とも結婚はする気はなかった。身体に刻み込まれた竜人の呪いのせいでね。呪いは周期的に訪れる。その度に私は父である皇帝から借りた魔晶石治療を余儀なくされているのだ。皇帝は決してただでは治療させてくれない。死ぬまで皇帝の手足となって働かなければならない」

 「そ、そんな! いくらご正室の子でないからって……酷いわ!」

 いくら剣の腕が並外れたものでも、皇帝は父親なのに!

 「私は彼にとって都合よく働く駒でしかない。実は皇帝は今、ある公爵令嬢と私を婚姻させようとしている。私は自分の様に皇帝に利用される子供を残したくはない。だからこの結婚は、互いにとって有益なんだよ」

 エリーンの異能が出現するまでには、まだ何年もある。
 それに、もしも異能が出現したとしてもこの方ならば必ずエリーンを守って下さるだろう。

 「――分かりましたわ。では、エリーンが5歳になるまでの契約にして下さい」

 正直不安だらけだ。

 回帰前、アレクシスはエリーンに発現した異能を見ると有頂天になってその能力を最大限まで引き出す訓練や実験を始めた。

 でも、そのせいでエリーンの異能は暴発したのだ。

 あの悲劇を繰り返さない為には……。

 「テオドール殿下、では契約の項目に1つ加えて頂けますか? 実は大公家は異能持ちの家系なのです。もしもエリーンに異能が発現してしまったらエリーンが困った事に巻き込まれない様に力を抑える防御の魔法をあの子に事前に教えて下さい」

 異能を暴走させるのではなく、抑える力を教え込めば!

 「ピレーネ一族の異能の力は聞いた事がある。遠くの人間に頭の中に呼びかける異能や、巨大な物を持ち上げる異能、身体を宙に浮かす異能…。普通は魔力のある人間でも魔法陣を描かなければ魔法は使えないのに、生まれつき自然に身についているとか?」


 ――そうなのだ。異能持ちは術式が無くても発動してしまう。

 本人が望めば自然に発動してしまうから相手に悟られる事無く能力を使う事が出来るのだとか。

 だからこそ皇帝はピレーネ一族に貸しを作る目的でわざと公国として独立させてやり、長年ピレーネ一公国を属国として支配してきた。

 ところが近年ピレーネ一族から受け継がれてきた異能の力が段々衰えてきてしまった。
 実はアレクシスは異能の力を持たない。

 だからこそ、エリーンに異能が発現してからの教育は凄まじいものになった。

 まるで自分に異能が発現したかのように有頂天になり、完璧を求め、更に上の能力を求めた。
 あれ程自分の子ではない、と声高に叫んでいたくせに!

 5歳……。

 エリーンが初めて異能の力の兆しが現れた年。

 この年になるまではこの方のお傍でエリーンを守っていこう。
 流石にそれ以上のご迷惑はかけられないわ。

 今は結婚したい人はいないかもしれないけれど、呪いが完全に消えたら普通の幸せを望む筈。

 その時に私達が障害になってはいけないわ!

 「マリアンヌ……ぼんやりして、何を考えていた? 敵を欺く為には今から私達は恋人として振舞わないと……今から私の事は名前で呼ぶように」

 え?

 何だか今凄い事を言われている様な。

 「あ……の……テオドール殿下?」

 テオドール皇子はふっと笑うと私の髪を一房掬い上げてキスを落とした。

 「きゃあっ! なっ……何を?」


 「テオドール。殿下はいらない。恋人同士なのに変に思われてしまう。それに敬語で話す恋人達はおかしいだろ?」

 こっ……この方って……!

 さっきまでの親切で紳士的な雰囲気は何処にいったの?
 それに何故こんなに色気が出ているの?

 ど、どうしよう……。
 恥ずかしくて顔を見る事が出来ないっ!

 「てっ……テオドール様……とお呼びしても?」

 帝国の第三皇子を呼び捨てになんか出来ないわ!

 真っ赤になった私の頬にテオドール様がチュ、とキスをする。

 「きゃあっ! だっ……駄目ですっ!」

 テオドール様の顔が近い……っ!

 「ふむ。やはりな……。マリアンヌは男性に対してあまりにも奥手の様だ。とても人妻とは思えない……。この程度の事で真っ赤になっていては夫を欺けないぞ?」

 ええっ?

 ど、どうしたら……。

 「離縁する為の第一歩として、今夜からこの邸宅に泊まるというのはどうだろう。どうせ離縁するのなら相手を怒らせ、君の不貞が事実だと思い込ませないといけないからな」

 な、なるほど。

 確かに!

 私が不貞を働いた妻だと相手に信じさせるのは良い考えかもしれないわ!


 「わ、分かりました! では……その……本日からお世話になります」

 アレクシスの怒りに満ちた顔を思い出して、私はブルリと震える。

 「――マリアンヌ、大丈夫だ。私が絶対に君達を守るから」

 ふわり、と肩を抱かれただけなのに。

 気付くと頬に涙が零れていた。

 「……っ」

 涙が止まらなくなった私に、テオドール様はいつまでも背中をさすり続けて下さった。


 ***


 「テオドール殿下、もう大丈夫ですか?」

 マリアンヌを寝室に案内し、テオドールが執務室に戻ると部屋の中から声だけが聞こえる。

 テオドールは声の主に返事をする。


 「あぁ……。もう出て来てもいいぞ?」


 すると執務室に光が差し込み、やがて大きな魔法陣が現れた。

 その魔法陣の中から銀縁の眼鏡をかけた無表情の蒼く長い髪をした護衛騎士が音もなく姿を見せる。

 「すまない……ルイス、待たせてしまったな」

 ――ルイスはテオドールの幼馴染で、密偵でもある護衛騎士だ。

 「殿下……あなた、何を考えているのですか。 何故、魔晶石を買わずにこんな面倒くさい事を?」

 テオドールは、冷静沈着なルイスが動揺して自分の事を心配して怒る姿を眺めながら、ニヤリと笑った。

 「――さぁね? ただ暗い森に迷い込んだウサギの親子が何故か気になるんだ。狼に食べられてしまうのか……逃げ延びるのか……反撃するのかをね……」