帝国の第三皇子。
 人喰い皇子。
 帝国の呪われた竜人。

 人は彼をまるで化け物の様に呼ぶ。

 こんなにも美しい人なのに…。

 でも、私はこの方を見たことがある。

 漆黒の艶やかな黒髪、ルビーの様な赤い瞳、一度見たら決して忘れる事はない端正な容貌……。

 あぁ……!

 何てこと!

 私は確かにこの方を覚えている。

 回帰前のあの日……。

 私の愛する娘エリーンはこの男の剣に身体を貫かれて死んだわ。


 今……私は我が子を殺した男と対峙している。

 あまりにも理不尽な再会に身を固くしていると、私の腕に抱かれたエリーンがもぞもぞと眠りから覚めてグズグズと泣き出した。

 皇子の冷たく鋭い瞳が私を突き刺す様に見つめる。

 「――ピレーネ公国の大公妃殿下が護衛騎士も連れずにこの様な場所へ来るとは。余程重要な事がある様だ。しかも生まれてまだひと月も経っていなさそうな赤子を連れて?乳母はどうしたのだ」

 怖い…!

 睨みつける皇子の鋭い瞳が回帰前に見た娘に剣を突き付ける姿と重なった。

 しかし、こうしている間にもエリーンはグズグズと泣き始めている。

 「は、はい! 申し訳ございません。じ、事情があり今後も私には乳母は必要ありません。あのっ。不敬を覚悟でお願いがございます。エリーン……わたくしの娘がお腹を空かせた様でございます。乳をあげたいのですが、何処か部屋を……」

 必死の願いが私自ら、乳を与える事だったのでテオドール皇子はギョッとしてかなり面食らった様だ。

 「なっ……あなたが乳を? 本気か?」

 乳と聞いただけで耳まで真っ赤になっている冷徹な人喰い皇子なんているのかしら。

 エリーンはお腹が空いた様で先程のぐずり泣きから本気の大泣きに変わった。

 「あっ……これはその……も、申し訳ない事をした。すぐに部屋を……っ」

 慌てた皇子の大きな声にビクリと身体を震わせると、エリーンが更に大声で泣き始めてしまった。


 「くっ……これはまずい。公女、許してくれっ」

 言い終わらないうちに部屋の床が突然輝き始め、見た事がない魔法陣が足元に現れた。

皇子はエリーンを抱いた私の腰を引き寄せる。


 「きゃあっ! な、何?」


 「赤子が泣いている! 早く何とかしないと!」

 目も眩むほどの眩しい光が身体の周りを包み込む。

 暫くすると光が消えて私とエリーン、テオドール皇子はベッドのある部屋にいた。

 *


 驚いた。

 転移魔法というものを初めて見た。
 テオドール皇子が高い魔力の持ち主だという事は聞いた事があるけれど。

 「あ、ありがとうございます。えっと、こちらのお部屋は?」

 客が臨時で泊まる部屋にしては広い……。

 「――あぁ。この部屋は私の寝室だ。気にせず思う存分乳を飲ませればいいだろう」


 は?


 「えええっ? め、滅相もございません! 私がお願いしたのは客間で休める場所、という意味でっ……」


 「なっ! 私だってやましい考えでこの部屋に連れ込んだ訳ではない! 赤子が可哀想だったから……」

 ――私達のこのやり取りに、エリーンはまたしても火が付いた様に泣き始めてしまった。

 テオドール皇子が慌てて後ろを向く。

 「わ、私が後ろを向いているから……その……は、早く乳を与えたまえ!」


 私は真っ赤な顔で大泣きしているエリーンの顔を見てこくりと頷くと、エリーンを抱いたままテオドール皇子のベッドに腰かけた。

 すぐに胸をはだけると、エリーンがピタリと泣き止む。

 ハクハクと口を動かす可愛いエリーンを優しく見つめて乳を含ませる。

 「よしよし。ごめんなさいね? お腹が空いたわよね? 沢山飲みなさい」

 部屋の中に、赤ん坊が夢中で乳を吸い上げる可愛らしい音だけが聞こえてくる。

 「――驚いたな。あんなにも死にそうな声で泣く赤子が乳を飲んでこれほどまでに落ち着くとは。赤子は皆、乳を飲めば大人しくなるものなのか?」

 後ろを向いたまま、テオドール皇子が感心して声をかけてきた。

 私はクスリと笑う。

 「お腹が空けば、この様に物凄い声で泣きますわ。そしておむつが汚れれば泣き、暑くても泣きます。あ、眠くなっても泣きますね……」

 「なんと……では、ほぼ一日中泣いているのか? 母親とは……大変なのだな」

 皇子の言葉に私は頷く。

 「そうですね。乳母ではなく、わたくしが育てると決意しましたから覚悟は出来ていますわ。でも、一日中泣いている訳ではございません。この様に乳を飲みながら幸せそうに眠りますし。天使みたいに可愛いのですよ?」

 「凄いな……母親とはその様な大変な中でも子に愛情を……」

 テオドール皇子の声が少し寂しそうに聞こえる。

 やがて乳を飲みながらスウスウと寝息をたてて、エリーンは眠った。

 「ふふっ……眠ってしまいましたわ?」

 後ろを向いたまま、皇子が呟く。
 「その……嫌なら断ってくれ。乳を飲んで眠った赤子の顔を見ても?」

 えっ……。

 驚いてテオドール皇子の背中を見る。

 そうか……。

 この方は母親であるタシア王女の顔も知らず、その愛を一度として受けた事もないのだわ。

 私が回帰前に見たテオドール皇子よりも一回りも若いこの方はなんて寂しそうな背中をしているのだろう。

 はだけた胸を素早く整えると、眠るエリーンを起こさない様にそっと抱き直す。

 「――エリーンは本当に乳をよく飲む可愛い娘なんですよ。どうぞ見て下さい。私の天使を」

 恐る恐る振り向いたテオドール皇子は、おずおずとベッドに腰かけている私に近付いた。

 そして、エリーンの幸せそうな顔を覗き込んだ皇子は息を飲む。

 「――な、なんだ! この可愛らしい生き物はっ……」

 震える指先でエリーンの柔らかいマシュマロみたいな頬をつつくテオドール皇子の赤い瞳から涙がひと粒、零れ落ちていた。

 「すまない……今のは見なかった事にして欲しい……」

 回帰前は精悍な顔立ちの堂々とした方だったけれど、今のテオドール皇子は17歳の私よりも5つ年上のまだ22歳の青年だ。

 母親への想いもあるのだろう。

 「――子を憎みながら産む母親はいませんよ。誰よりもその成長を見守りたいし、子の幸せを祈るものですわ」

 エリーンを見つめていたテオドール皇子の赤い瞳が大きく見開かれる。

 「そう……なのだろうか……」


 ***


 「くそっ! マリアンヌ! マリアンヌは何処へ行った!」


 ピレーネ公国の大公邸では、マリアンヌがいなくなった事で苛立ったアレクシスが大声で使用人を怒鳴りつけていた。

 「アレクシス様ぁ~。勝手に出て行かれた方なんて気にする事ないですわ。ミレーヌがお傍にいますし」

 甘ったるい声で纏わりつくミレーヌは確かに可愛いらしいのだが、アレクシスには出会ったばかりの頃のおどおどした瞳の自分だけを頼りにしていたマリアンヌがどうしても忘れられなかった。

 義父であるスタンリー侯爵にいたずらをされても、なお信じようとしていた純真なマリアンヌ。

 自分の護衛騎士とも会話をした事がないと話すマリアンヌ。

 デビュタントすら禁止され、家の中に閉じ込められていたマリアンヌ。

 アレクシスは、マリアンヌを自分の檻の中に閉じ込めて誰にも見せない様にしていたスタンリー侯爵の気持ちを痛い程理解していた。

 まだ幼さの残る純真無垢な彼女が自分の言う事だけに従い、罪悪感に苛まれ、2人だけの秘密を持つ。

 なんと素晴らしい!

 スタンリー侯爵が邪な気持ちで愛人にしたいと望んでいると教えてやった時のマリアンヌの絶望に打ちひしがれたあの顔!

 そうだ!

 私はあの怯えた顔のマリアンヌを見たいのだ。

 それなのに……。

 懐妊してから、マリアンヌは変わってしまった。

 悪阻が酷い等理由をつけては私との夜の営みを拒み続けた。

 当然、そんな反抗的な彼女にはお仕置きが……そう、教育が必要なのだ。
 使用人たちのいる前でわざと口汚く怒鳴りつけてやった時は本当に素晴らしかった。

 マリアンヌが屈辱に耐え、私からの優しい言葉を心待ちにしている事が手に取る様に分かったから。

 すぐには褒美をあげられない。

 犬は御主人様からお預けを命じられて成長するものなのだ。


 「ふふふ……マリアンヌ…君が逆らえば逆らうほどペナルティは増えていくよ。ちゃんとしたしつけが必要だよね……ふふ……ふふふふ」

 マリアンヌの怯えた顔を思い出したアレクシスはゾクゾクする快感に笑いが止まらなくなっていた。