「今……なんと? はっ……離縁だと?」

 憤怒の表情でアレクシスは私が今飲み干してサイドテーブルに置いたグラスを床に叩きつけた。

 バリ―ンという音と共にグラスが床に砕け散る。
 そうすれば、私が生意気な態度を取らない事を知っているから。

 「きゃあっ! だ、大丈夫ですか? 妃殿下……お怪我は?」

 ローラが驚いて声を上げ、使用人が慌てて割れたグラスを片付けている。

 そうだ。
 このローラも私を庇えばそれだけ酷い目に遭う。

 回帰前、ローラは半分幽閉された様な扱いとなった私とエリーンの為に何度もアレクシスに直訴をして、解雇されたのだ。

 ローラは私よりも二つ年上の19歳。
 一方的に解雇されたら親からどんな酷い仕打ちに遭うか……。

 そんな事をぼんやりと考えていると、アレクシスがまた怒鳴り始めた。

 「マリアンヌ! 私と離縁? どういう事だ! お前の様な無能で傷物の女と婚姻してやったのに裏切っていたのか?」

 アレクシスは使用人が見ていると分かっていながらいつも私を怒鳴りつける。
 使用人の見ている前でこうして怒鳴りつけられる度に尊厳は踏みにじられ、大公妃でありながら、私はいつもオドオドしていた。

 ――婚姻前はあれ程甘い言葉を囁いていたアレクシスは婚姻後徐々に変わっていった。


 私を感情の無い物の様に扱う。
 本当に自分は感情の無い物なのではないか、いや、むしろ心が無ければ傷つくという無駄な感情から解放されるのに。

 「あなたが私に対してわざと使用人の見ている前で怒鳴るやり方には飽き飽きしています」

 私は冷たい瞳でアレクシスを見つめる。

 「私を感情の無い人形だとでも思っていらっしゃる様ですね。子を産み身体の辛い妻に対して労いも無く、いきなり自分の子なのか問いただすだなんて……あなたのお望み通りの答えを返したまでの事。アレクシス様、私と離縁して下さいませ」

 アレクシスは、私とエリーンを交互に睨みつけると唇を噛み締めた。

 「マリアンヌ……昔の優しく可愛らしかった君は何処へ行ってしまったんだ……こんな風に私を怒らせるとは。君は子が出来てから変わってしまった」

 部屋の扉を力任せに閉めて出て行くアレクシスに対して何の感情も湧かない。

 エリーンが扉の閉まる大きな音に驚いて大声で泣き始める。

 「よしよし……ごめんなさいね……お腹が空いている様だわ」

 私がいきなり胸をはだけ始めたので、ローラがぎょっとして止めた。

 「ひ……妃殿下! 間も無く乳母が来ますので、お待ちを」

 王族、貴族は子を産んで新鮮な母乳が出るのに乳母に乳を飲ませる。

 でも私は……。

 これから離縁してここを出て行くのだ。

 エリーンには申し訳ないけれど私は乳母を引き連れてここを出ようとは思っていない。



 「いいえ。この子は今後も私が乳を自ら与えます」

 そう宣言して乳が張ってはち切れそうな胸を露わにすると、エリーンは突然泣き止んだ。

 私は恐る恐る赤ん坊の口に自分の乳首を咥えわせた。

 途端に力強く乳を吸い始めた我が子の顔。
 先程まで痛い位に張っていた胸の痛みが嘘の様に消えていく。

 ――何故か、知らないうちに涙が頬を伝う。

 「妃殿下? 大丈夫ですか? 大公殿下も今頃後悔されていると思います」

 ローラがおろおろと私を慰めてくれている。

 「ふふっ……違うの……私嬉しいの。子に自分の乳を与える事が出来るなんて。なんて幸せなのかしら……」

 赤ん坊が乳を吸い上げる、んくっ……んくっ、という音を聞きながら私は改めてこの子を守る為ならば、どんな事にも耐えてみせると誓った。

 「愛しているわ……私の可愛いエリーン」


 ***


 「くそっ!マリアンヌめ! なんて生意気な態度なんだ……まさかこの私を裏切っていたとはな……」

 アレクシスは飾り戸棚から、ワインを取り出すとグラスに注ぐ事もせずに直に瓶に口を付けて飲み始めた。

 「アレクシス様ぁ~! どうされました?」

 続き部屋の寝室から、乱れた夜着を着ただけの子爵令嬢のミレーヌが欠伸をしながら顔を出した。

 「あの女……大公妃にしてやった恩も忘れて他の男との間に子を……!」

 ――マリアンヌはいつだって私のいう事を従順に聞く賢い女だったのに。

 「ええっ? ひど~い! こんなに素敵な夫がいるのに……ミレーヌは、アレクシス様しか見えませんわ! あの方、頭がおかしいのね!」

 大きく胸のはだけた夜着のままミレーヌがアレクシスにしな垂れかかる。

 「アレクシス様の御子でもないのに、この大公家で育てるおつもりですか? アレクシス様が笑い者になってしまいます。ミレーヌは悲しいです」

 ――ミレーヌはマリアンヌが懐妊してからアレクシスの事をよく気遣い、今では大公家にずっと滞在している可愛い女だ。

 マリアンヌの青みがかった銀髪も勿論そそるのだがこの女のイチゴブロンドのフワフワした巻き毛と、つぶらな子犬の様な潤んだアーモンド色の瞳、幼さが残る顔立ちに似合わぬ豊満な胸としなやかな腰つき……。

 懐妊してから悪阻が酷いだのお腹が張るだの言い訳をして寝室を共にしないマリアンヌの何倍も可愛らしい。

 「フフフ……ミレーヌは本当に可愛らしいな。君は私にいつでも従順だね」

 ちゅ…とミレーヌの首筋にキスを落とす。

 「ああっ……アレクシス様ぁ……大好きですぅ~」

 うっとりと自分の顔を見上げるミレーヌの唇を塞ぎながら、アレクシスはマリアンヌへどんな罰を与えてやろうか考えていた。

 ***

 「ローラ……忙しい貴女にこんなお願いをするのは申し訳ないのだけれど……古物商を呼んで頂戴」

 「え……? 古物商……ですか?」

 西部の外れにある大公家は、先代大公が急逝してしてアレクシスが引き継いでからどんどん傾いていった。

 あまり作物が育たない雨量の少ない西部の土地、仕事も父親に任せきりで学ぼうともしてこなかったアレクシスは先代大公が亡くなると事業の殆どをピレーネ一族の長老会に一任させてしまった。

 ピレーネ一族はアレクシスを大公として担ぎ上げ、自分達の思い通りに権力を駆使している。

 そんな状態なのに、あの男は私が妊娠して体調を崩し始めた途端に機嫌が悪くなっていった。

 悪阻が酷く、何も口にしたくない状態で吐き気も止まらなかった私は寝室を共にする事は出来ず、その事を口にするとまるで汚物を見る様な蔑んだ瞳で私を見た。


 「マリアンヌ、君は拾ってあげた私に何の恩も感じずに妻としての務めもろくに果たせないんだね……」

 あまりにも悪阻が酷く、あの頃の私は夫が何を言っているのか理解する事が出来なかった。

 しかし、やがて私は彼が大公家に招き入れたミレーヌ子爵令嬢の存在を知る事になり愕然とする。

 表向きは悪阻が酷い私を心配してずっと私の看病をしてくれる心優しい友人、という事になっていたらしい。
 しかし彼女は私の知り合いではなく、アレクシスの愛人だったのだ。

 まだ未婚の年若い令嬢におかしな噂が立つのは可哀想だ、というアレクシスの言葉に私は泣いた。

 ――では、私は?

 あなたの子をこの身体に宿し、毎日悪阻に苦しむ私は可哀想ではないと言うの?

 酷い悪阻のせいで、ミレーヌが大公家に住み着く事になっても私は抗議する事も出来なかった。

 回帰した今なら分かる。
 アレクシスは、侯爵家の持参金とその後の援助が欲しくて私と婚姻したんだわ。

 アレクシスと離縁して大公家を出たら、何処か小さな町でエリーンと2人で暮らしたい。

 でも生まれたばかりのエリーンを抱えて身一つで出る訳にはいかないわ!

 私は部屋の中にある調度品や婚姻した時に持って来た宝石の箱を確かめた。

 (これを古物商に良い値で買い取って貰いましょう)

 あとは……。

 私は紙とペンを取り出すと、ある人物宛てに手紙を書いた。