「マリアンヌ様?」

驚いたローラにマリアンヌが縋りつく。

「エリーンが……お願い! 私、どうしたら……」

真っ青になっているマリアンヌを宥め、隣の寝室に3人で駆け込む。

寝室ではエリーンが火が付いた様に泣き叫んでいた。

「ど……どうしたのか分からないの……いつもは乳を飲ませれば泣き止むのに……」

マリアンヌは先程、エリ-ンに乳を飲ませて寝かしつけて自分も少しウトウトしていたのだ。

(まさか、私がウトウトしていた間に何かあったのでは? 異能が発現するのはまだまだ先の筈……でも、もしかしたらその予兆なの?)

ガタガタと震えるマリアンヌを見て、ルイスが声を掛ける。

「マリアンヌ様、落ち着いて下さい。貴女が気が動転してどうするのです? 先ずは考えられる泣く原因を取り除いてあげましょう」

「――え?」

銀色の髪がくちゃくちゃになり、青ざめて涙を浮かべるマリアンヌの耳に冷静沈着なルイスの声が響き渡る。

ルイスは眼鏡をカチャリ、と掛け直すとマリアンヌに質問をした。

「では、マリアンヌ様……乳を飲ませた時は公女様は眠っていたのですね? では、おむつが汚れているかもしれません」

慌ててマリアンヌがおむつを調べる。
「濡れてないわ……」

エリーンはおむつを替えても泣き止まない。

「ふむ……。おむつも濡れていない、お腹も空いていない、では……ただ眠いのでは?」

「わ、私も眠いのかもと寝かしつけようとしたのですが……起きてからずっとこの状態で。暑いのかと、産着を1枚脱がせてみても」

「そうですか。では赤子による夜泣き、という事ではないでしょうか……」

「――え?」

マリアンヌは回帰前、乳母がいたので夜はいつも乳母にエリーンを任せていた。

これが乳母がいる事の安心だったのに。


(どうしよう……このまま泣き止まなかったら……)

「マリアンヌ! 何があったのだ!」

いつの間にかテオドールがマリアンヌの寝室に駆けつけていた。

「テオドール様……エリーンが泣き止まないのです……」

冷静なルイスがマリアンヌの言葉を補足する。

「はい。恐らく夜泣きかと……。赤子は知能が発達してきますと眠りたいのに眠れない事への苛立ちからこの様な暴挙に……」

マリアンヌが涙に濡れた瞳でテオドールを見つめる。

「私は、母親失格です。こんなにも苦しそうに泣くエリーンを寝かしてあげる事も出来ない……」

「――眠りたいのか。では、エリーンをこちらへ」

テオドールがマリアンヌの腕に抱かれて大泣きをしているエリーンを代わりに抱き上げる。

「テオドール……様?」

テオドールはマリアンヌの腰を引き寄せると赤ん坊を抱いたまま無詠唱で魔法陣を描いた。

「きゃっ、こ……これは?」

「大丈夫。赤子もたまには外の空気を吸いたいのかもしれない。夜の散歩に出かけよう」

「え……ええぇぇぇぇぇ?」

やがて魔法陣と共に眩しい光に包まれて、マリアンヌはテオドールが抱くエリーンと共に3人で何処かに消えてしまった。



「……だ、大丈夫でしょうか……」

呆然としているローラの背後でカチャリ、と眼鏡を掛け直す音が聞こえる。

「へぇ……あのテオドール殿下がねぇ。赤子の力は偉大だな」

驚いて振り向くと、ルイスはいつもの冷静沈着な表情に戻っていた。

「それで……ローラ殿は私に何をお願いしたかったのかな?」

ローラは慌ててルイスの手を握った。

「ああっ! そ、そうでした! わ、私に魔法を教えて頂けませんか?」


***


転移魔法を使い、エリーンを抱いたテオドールが降り立ったのは王都の時計台のてっぺんだった。

時計台のてっぺんは、主に時計が故障した時や年に一度の大掃除の時くらいしか使われる事がないとても小さく狭い場所だ。

「て、テオドール様? ここは?」

余りにも高く、マリアンヌは恐怖を感じた。

「王都で一番高い時計台だ。私はいつも自分に自信が無くなるとここへ来るのだ。寒くないか?」

テオドールは器用にエリーンを抱いたまま片手で上着を脱いでマリアンヌに着せた。

「あ、ありがとうございます……」

「今の時間は下を見ても真っ暗だが……。ほら、遠くを見てみろ」

言われるまま、マリアンヌが遠くを見る。

「まあっ! 凄いわ! まるで宝石箱のよう……」

時計台の真下は公園になっていて真っ暗なのに、遠くの家々の灯りが宝石の様に輝いて見えた。

「――人間は苦しい時、つい下を向いてしまう。暗闇で下を向けば底知れぬ闇だけが顔を出すのだ。だが、前を向いて遠くを見ろ。自分の思い描く未来は宝石の様に輝いている、と思えば下なんか向いている時間が惜しくなる」

マリアンヌの胸に熱いものが込み上げ、テオドールを見つめる。

(そうだわ。この方はいつでもどんな時でも諦めずに前を向く方だった)

帝国の呪われた竜人……人喰い皇子……。

人はテオドール様をそう呼んでいたけれど、この方が沢山の血を流した末にこの帝国は栄えていった。

何故この方に竜人の呪いが掛かっているのかは分からないけれど……。

いつか父である皇帝から魔晶石を勝ち取り、自由を手に入れようと戦っていたテオドール様は、皇帝の命令で異能を暴走した怪物公女を倒す為にあの日、私の前に現れた。

私は……。

あの日。
娘を失ったあの日から決心したのだったわ!

もしも生まれ変わる事が出来たなら、今度こそこの子を守ると。

私に必要なのは、母としての覚悟!

「マリアンヌ、貴女は今遠くに輝く灯りを見てこの場所が怖くなくなっただろう」

「はい! 今私が立っているこの場所はいつかエリーンと共に輝ける場所になる筈ですね」

テオドールはマリアンヌの手の甲にキスを落とすと優しく微笑んだ。

「では……。マリアンヌ、上を見てご覧?」

時計台の上を見上げると、そこには満天に輝く星空が広がっていた。

「――っ綺麗……です」

涙がひと粒零れる。

「今にも手が届きそうな星空だろ? 私にいつも自信を取り戻させてくれるのだ……」


いつの間にかエリーンは寝息を立ててぐっすりと眠っていた。

優しく肩を抱き寄せるテオドールの腕が暖かくマリアンヌを包み込む。

「私を夫として頼って欲しい。マリアンヌ、貴女は独りではない」

「テオドール様……」

テオドールの暖かい肩にもたれながら、マリアンヌは心の中で激しい葛藤と戦っていた。

――テオドール様はお優しい方。
でも……この方を好きになっては駄目。

エリーンを怪物にしない事が私の役目!

身の程を知りなさい……マリアンヌ。
貴女は穢れた傷物なのだから……。