この世には時々頭のおかしな人間が生まれる。

 生まれつきおかしな考えをする者…。
 育った環境で頭がおかしくなる者…。
 不幸な出来事がきっかけとなり頭がおかしくなる者。

 マリアンヌの夫がどのタイプの奴なのかなど、テオドールにとってはどうでも良い事ではある。

 しかし、自分が執着した女性をここまで深く傷つけ絶望させるとは、どれ程歪んだ心を持っているのだろう。

 執務机を怒りで破壊したテオドールに、ルイスがハンカチをポケットから取り出しテオドールの手に素早く巻いて止血する。

 「――まだ一度もお会いしていない人間にこれ程深い嫌悪感を持たせるとは……アレクシス様は天才なのかもしれませんんね」

 ルイスの言葉にテオドールが殺気を隠そうともせずに冷酷に微笑む。

 「ふふふ……この様にどす黒い感情になったのは実に久しぶりだ。マリアンヌの許しが貰えればすぐにでも……」

 マリアンヌは慌てて首を振る。

 「そっ、そんな恐ろしい事はどうか胸の中だけに! アレクシスは確かに傲慢で残酷な一面はありますが、わたくしを叩いたりはした事はありませんから!」

 「本当に……? ただの一度も?」

 テオドールがじっとマリアンヌを見つめている。
 その視線があまりにも鋭くて、マリアンヌは瞳をギュッと閉じた。

 (そう……叩いたり蹴られたりはしていない。首を絞められたことはあるけど)

 アレクシスはお腹に子が出来たばかりの頃に睦事の最中にいきなり首を絞めた事がある。

 あの時の恐怖は忘れられない。

 酸素が無くなり自分が死ぬかもしれない恐怖よりも、お腹の子が死んでしまうかもしれない恐怖でマリアンヌは涙を流した。

 その涙を見てアレクシスは興奮していた。

 なんておぞましい!   

 あの事があってから、悪阻が激しくなり遂にはアレクシスが寝室にやって来るだけで吐き気が止まらくなった。


 「――どうやら、誰にも言えぬ暴力があったようだな……」

 テオドールが唇を噛み締める。

 「――っ」

 ――この方は何故こんなにも私の事を気にかけて下さるのだろう。

 こんな私なんかの為に……。

 まるで自分の事の様に怒ってくれる人がいるなんて。


 結婚してからマリアンヌはアレクシスの支配の影響で、人から気遣って貰ったり心配して貰ったり、ましてや自分の代わりに怒ってくれる人間等いないと信じ込んでいた。


 全ては心の弱い自分のせいなのだと。

 マリアンヌに縋りつき、侍女のローラは涙を流している。

 「ううっ……な、なんて恐ろしい……っ! あの方には血が通っていないのではありませんか? 実のお嬢様を母親と会わせない様にするだなんて! 妃殿下……これ程酷い状況だったとも知らずに申し訳ございませんでした」


 (これまでも使用人たちの妃殿下への態度は目に余るものがあったのに。これでは奴隷と一緒だわ!)

 その時だった。
 マリアンヌに抱かれたエリーンが、突然にっこりと笑った。


 その可愛らしい顔にローラが驚いてエリーンを見つめる。

 「まあっ……こ、公女様が私に笑いかけて! 凄い!」

 テオドールが目を丸くしてエリーンの顔を覗き込む。

 マリアンヌがフフッと笑った。

 「実は昨日の夜からご機嫌な時にはこうしてニコッとするんですよ?」

 テオドールが驚きの余り後ずさりをする。

 「なっ……! 生まれたばかりなのに、母親の悲しい気持ちを理解して笑うとは……この子は……まさか天才なのでは? それとも神が我々に与えた天使……」


 大騒ぎをしている三人に向かってルイスが無表情に解説をした。

 「お喜びのところ大変言いにくいのですが、生後間もなくの赤ん坊の微笑みは、生理的微笑と呼ばれております。口角が横に広がる反射的な笑顔でして、ご自分の意志で笑っているのではないのです」


 ルイスの解説にテオドールが反論する。

 「おい……ルイス。この子を他の子と一緒にするとは。エリーンは間違いなく天才なのだぞ?」

 これ以上反論したり解説をしたら自分の命に係わる、と思ったルイスは口を噤んだ。

 「この様に可愛らしいエリーンの姿は一瞬でも見逃す事は出来ん。それを……あのクズは他人に育てさせようとしているのだ。この……恐ろしい程の早さで成長している我が子の姿を他人に預けるだなんて……なんて愚かな事を……」


 昨日出来なかった事が今日には出来るようになる……。
 そんな素晴らしい能力を持つ赤子の魅力を知らないとは。

 「あの……。では、妃殿下はもう大公邸にはお戻りにならない、という事ですね?」

 テオドールはローラの質問に大きく頷いた。

 「マリアンヌをお仕置きという名の虐待で苦しめておきながら、今後も考えを改めようとする気配もない男だ。その様な男の元へマリアンヌもエリーンも戻る事はない」

 ローラは目の前で真っ直ぐな瞳でマリアンヌを見つめるテオドール皇子を見て決意した。

 「――分かりました。私は大公妃殿下の侍女でしたが、今後大公家に仕えるつもりはございません! どうか私を妃殿下専属の侍女として雇って下さい」

 ローラの決意にマリアンヌは喜んだ。

 「では……。私は今日から大公妃殿下じゃなくなるのだから、名前で呼んで頂戴ね」

 「は……はい! マリアンヌ様……!」

 ***


 ローラの部屋はマリアンヌの部屋の隣を使わせて貰う事になった。

 それにしても……。

 この邸宅は帝国の第三皇子のものらしいけれど、皇子が住むにしてはこじんまりとしている。

 立派なお屋敷に違いないけれど使用人の数だって少ないわ。

 その時扉をノックする音が聞こえる。

 扉を開けると、先ほど一緒にいた皇子の護衛騎士ルイスが立っている。

 「何か足らないものはありませんか?」

 ローラは先程まで皇子に対して無遠慮な物言いをしていたルイスが自分の様な侍女に気遣いを見せる態度に驚いた。

 「は…はい! お気遣いありがとうございますっ! ただ…妃殿下は恐らく一日分の着替えくらいしかお持ちでなかった筈。私なんかよりも妃殿下が困らない様にして頂ければ!」

 その言葉に、ルイスは目を見張りコクリと頷く。

 「なるほど……。馬車の中に大荷物が入っていたので心配要らないかと思いましたが。ではあの荷物は一体……」

 「恐らく公女様の衣服やおむつ、タオル等だと思われます。本来は乳母に任せれば良いのでしょうが、マリアンヌ様は乳母は要らないと。恐らく公女様をお産みになったその日には離婚を決意していたのだと思います」

 ルイスの眼鏡の奥の瑠璃色の瞳がキラリと光る。

 「ほう……。では、マリアンヌ様は妊娠中もずっとこの機会を狙っていたのかもしれませんね。いや、失礼……子ウサギの様に怯えていたかと思えば大公妃という立場にありながら、大胆にも子連れで家出をするという事をやってのける。不思議な方だ」


 ローラはルイスの眼鏡の奥の瑠璃色の瞳が冷たく光るのを見逃さなかった。

 「妃殿下は……マリアンヌ様は、公女様をお産みになってから変わりました! 確かにこれまではいつも何か怯えた瞳をされていましたけど、公女様の母となって強くなられたのです! わ、私はこれまでずっと陰で支えておりましたので妃殿下の素晴らしさならいくらでも教えて差し上げますよ?」


 キッと睨みつけるローラの涙を浮かべた顔を見て、ルイスはフッと微笑んだ。

 「なるほど……あなたも私と同じで苦労が絶えませんねぇ。では同志として、これからも宜しく」

 ふわり、と頭を撫でられたローズは思わず赤面してしまった。

 「なっ……! いくら騎士様でも私の頭を撫でるのはいかがなものかと思いますわ!」

 ルイスは怒ったローラの顔を見つめると、眼鏡をかけ直し謝罪した。

 「あぁ……。これは失礼致しました。レディーの頭を撫でるなど、私らしくありませんでしたね。何だか昔飼っていた子猫によく似ていた者ですからつい……」

 (この人……。冷徹そうに見えるけれどすぐに謝罪するし、意外と面倒見が良い人なのかも……。猫と一緒にされるのは心外だけど。それによく見たら凄く美丈夫な方だわ)

 赤毛でそばかすがコンプレックスのローラは恥ずかしくなり目を逸らした。

 ――サラサラの長く青い髪色は、この方が高い魔力を持つ魔法師の一族だという事を証明している。
 帝国で有名な魔法師一族は皆青い髪色をしているのだ。
 眼鏡をかけた博識な男性でありながら、護衛騎士をしているという事は恐らく相当剣の腕も立つのだろう。
 先程の魔道具も、恐らくこの方がお作りになったのかもしれない。

 「あの…もしかして先程の魔道具はルイス様がお作りに?」

 「……? はい。そうですが……」

 やっぱり!

 「あのっ! お願いがあるのですっ……わ、私……」

 ローラが思い切ってルイスにある事を頼もうとしたその時だった。

 部屋の扉が勢いよく開け放たれ、真っ青な顔のマリアンヌが飛び込んできた。

 「ローラ! 大変なの……っ! エリーンが……!」