翔さんとぶつかり合ったあの日以来、私たちの間にはどこか不思議な距離感が生まれた。衝突があったにも関わらず、翔さんは私の意見を尊重しようとする姿勢を見せてくれたし、私も彼の考え方を理解しようと努めていた。だけど、それは「職場の仲間」としての距離感だったはずなのに、最近どうもその枠を越えそうな自分がいることに気づき始めていた。

彼の冷静さや鋭い洞察力には、驚かされることが多い。それに、あの知的でスマートな立ち振る舞い…。少し接する度に、心のどこかが揺れ動くような気がして、自分でも戸惑いを覚えていた。いや、違う。私はあくまで仕事に集中しなきゃいけないのに、どうして彼にこんなに引き寄せられるのだろうか?

そんなある日、美術館に新しい作品が届く日がやってきた。今回の展示の目玉であり、私たちが特に大事にしてきた一品だ。私は準備に余念がなく、到着の時刻を待ちわびていたが、翔さんもその準備に加わってくれることになった。彼はこういった美術関連の知識はないはずなのに、自ら手伝いを申し出てくれたことに、正直驚いていた。

翔さんと共に作品を展示室に運び込み、丁寧に梱包を解いていく。その瞬間、心の中で高揚感が広がるのを感じた。作品が姿を現し、展示室にその存在感が満ちていく様子に、思わず感嘆の声を漏らした。

「素晴らしい…」

私が作品を見つめていると、翔さんが静かに隣に立って、その作品に目を向けた。彼は無言でしばらく作品を見つめていたが、やがて小さく微笑んで、「美咲さんがこれにこだわる理由が、少しわかった気がします」と、ふと優しい声で言ってくれた。

「本当ですか?」思わず翔さんを見上げてしまった。

彼の表情には、普段の冷静な印象とは違う、どこか柔らかいものが感じられた。それを見た瞬間、心臓が跳ねるような感覚を覚えた。翔さんがこんな風に柔らかい表情を見せるなんて、これまで想像したことがなかったからだ。

「美咲さんがこれを大事にしている気持ちが、展示が完成した瞬間に伝わってきました。作品がこうして輝く瞬間を見れるのは、あなたがその情熱を注いだからだと思います。」

彼の言葉に、胸がじんと熱くなるのを感じた。冷静で理性的な彼が、私の情熱を理解し、讃えてくれることがこんなにも嬉しいなんて…。それと同時に、胸の中で小さな不安が膨らんでいく。私はただの「職場の仲間」なのに、彼の言葉や行動にこうも心を揺さぶられる自分が、少し怖かった。

展示の準備が終わり、翔さんと一緒に外に出た頃には夕暮れが差し込んでいた。美術館の周りを夕陽が染め上げる風景が、まるでこの特別な日の終わりを祝福しているようだった。

「今日はありがとうございました、翔さん。手伝っていただけて、とても助かりました。」私は少し照れながら感謝の言葉を口にした。

「こちらこそ、貴重な経験をさせてもらいました。美咲さんのおかげで、新しい視点が見えた気がします。」彼の言葉に、また胸が熱くなり、心が浮き立つのを感じた。

でも、ここで一歩踏み出してはいけない気がした。翔さんは冷静で仕事に徹するプロフェッショナルであり、私はその一端に触れただけにすぎないのだ。だからこそ、自分が抱き始めたこの気持ちを抑えるべきだと、心の中で言い聞かせた。

その後も翔さんとは頻繁に仕事で顔を合わせる機会が増えていったが、どこか距離感を保とうとする私がいた。一方で、翔さんもまた冷静さを保ちながらも、ふとした瞬間に優しい表情を見せてくれることが増えていったように思う。

そんなある日、美術館で開催されるイベントに参加することになった。来館者と作品を通じて交流する場で、私も翔さんも案内役としてサポートに入っていた。その中で、来館者から質問を受けるたびに、翔さんの冷静で的確な回答と、私の情熱的な説明が絶妙なバランスを保ち、まるで二人が一つのチームとして息を合わせているかのようだった。

イベントが無事に終わり、来館者が去った後、ふとした瞬間に彼と目が合った。無言のまま微笑み合うと、まるで二人だけが特別な空間にいるような感覚が広がって、私は言葉を失った。

「今日のイベントも、とても良かったですね。」彼がふと微笑んで言った。

「はい、翔さんと一緒だと、私も心強いです。」そう答えた瞬間、心が急に跳ねるような感覚を覚えた。言葉にしてしまうことで、私の心の揺らぎが少し彼に伝わってしまった気がして、顔が赤くなるのを感じた。

翔さんは私の表情に気づいたのか、少し驚いたように私を見つめていたが、やがて穏やかに微笑んだ。その笑顔がさらに心に響き、私の心の中で、彼への気持ちが膨らんでいくのを抑えられなくなっていった。

このままでは、私は彼に惹かれてしまうかもしれない。いや、すでに心の中で彼に惹かれ始めていることを、認めたくないながらも実感していた。

彼は私にとって職場の仲間であり、頼れる存在だ。でも、彼の冷静さや時折見せる柔らかな一面が、私の心を揺らし続けている。もしこの気持ちを伝えてしまったら、今の関係が壊れてしまうかもしれない。それが怖くて、心の奥底にしまい込もうとするのだけれど、どうしてもこの気持ちを抑えきれない自分がいる。

彼に少しでも近づきたい。でも、怖い。私が彼に抱くこの気持ちは、いったいどうすればいいのだろうか。