例えば、揃えたはずの靴が朝起きると違う方向を向いていたり、それがいつもお墓の方角だったり。
知らない内に手首や足首に黒っぽい痣ができていたり、踏切を待っている時に、警笛に混じって人の声のようなものが切れ切れに聞こえたり。

 子どもの頃から、私の周りでは時々「意味がわからないこと」が起きる。

 お父さんお母さんには何度か相談したけれど、怖い話の読みすぎだと取り合ってもらえなかった。
 学校の友達は霊感があるなんてすごいと目を輝かせたけど、段々あの子は嘘つきだと言われるようになったから話すのをやめた。
 ただ一人、真剣に私の身を案じてくれたおばあちゃんは半年前に亡くなった。

 日常を包みこむ、ぼんやりした不安。
 そんな日々を生きる中で、私にできる唯一の対処法は、わからないままでいることだった。背景を探らない、点を線にしない。

 例えば、あの踏切は過去に事故があったとか、片手だけが見つからなかったとか、夜にお墓の近くを通った人が変な人影を見たとか。

 そういう噂に蓋をして、全部気のせいだと言い聞かせて生活すれば、逃れようのない恐怖も、誰かに助けてほしいという気持ちも、やり過ごせると思っていた。けど。

「葵ちゃん」

 忘れていた提出物を出すために、ひとり渡り廊下を歩いていた私を呼び止めたのは、一つ上の藍原先輩だった。切れ長の目をきらきらさせて歩み寄ってくる姿は私と会えたのが嬉しいと全身で表現しているみたいで、何だかくすぐったい気持ちになる。

 先輩と初めて出会ったのは、ちょうど私がおばあちゃんを亡くして落ち込んでいた頃だった。オカルト方面の話題が好きな先輩が声をかけてきたのだけど、当然ながら、最初はまともに話をするつもりなんてなかった。先輩が聞きたがる体験談は、私にとって目を逸らしたいものでしかなかったから。

 けれども、先輩は諦めなかった。私が一人でいる時を狙って何度も話しかけてきて、何でもない話を重ねながら、少しずつ私の心を解きほぐしてくれた。この人なら信じられるかもしれないと。

 そうして、これまで身の回りで起きてきた様々な出来事について打ち明けると、先輩は私の目をまっすぐに見つめて言った。調べてみようと。

『だってさ、いくら蓋をしたところで大元の箱があれば視界に入るよね? でも中身を一つずつ並べてどこから来たのか調べたら、取り除く方法だって見つかるかもしれない』
『もちろん俺も手伝うよ。乗りかかった船っていうのもあるけど、何より葵ちゃんの力になりたいから』

 先輩の言葉は、ずっと俯いて生きてきた私の心に、光が差し込んだようだった。出会ってたった半年しか経っていない私に、こんなにも寄り添ってくれる人。
 誰もわかってくれない、一人で我慢するしかないと思っていたけれど、先輩となら現状を変えられるかもしれない。新しい一歩を踏み出せるかもしれない。期待と、不安と、うまく説明できないふわふわした気持ちを抱えて先輩の手を取ったのが一週間前。

 そして今日の放課後、私たちはあの踏切を通って、坂道の上にあるお墓へと向かうことになっている。

「藍原先輩、次の授業こっちなんですか?」
「そうそう音楽、歌苦手なんだけど、絵はもっと駄目だからさ」

 今日一人ずつ課題曲歌うんだよ、とポケットに手を突っ込んだまま肩をすくめる先輩。きゅっと寄せた眉は本当に嫌そうで、つい口元が綻んでしまった。こんな風に気軽に笑えるようになったのも、先輩のおかげだと思う。

「葵ちゃんも移動教室?」
「私は提出するものがあって……っと、時間ギリギリなので、そろそろ行きますね」
「あっ引き止めちゃってごめん」
「いえ……あの、歌のテスト頑張ってくださいね」

 ぼそぼそと口にした言葉がちゃんと伝わったのかはわからないけど、気恥ずかしさから逃げるように駆け出した背中の向こうで、先輩が笑った気がした。



 無事に課題を提出して、来た道を戻っていると、音楽室の扉越しに先生の声がした。名前の順で行う歌のテストのトップバッターは、私と同じ苗字の人らしい。と言っても葵であおいと読むのは珍しいから、青井とかなのだろうけど。

『怖いなら手をつないで行こうか』

 冗談めかしてそう言われた時のことを思い出すと、胸が高鳴る。あの声は誰なのか、手足を掴まれたような痣は何なのか。意味を知るのは怖いことだけど、先輩とならどこへだって行ける気がする。

「きっと、大丈夫」

 そう自分に言い聞かせて、私は自分の教室へと向かった。音楽室に響く、先輩のほんの少し調子はずれな歌声を想像しながら。