「生活費のことなんだけど」

 妻は瞬きもせずにわたしを見つめていた。

「本気でやろうとすると、サラリーマンと二足の草鞋(わらじ)を履くわけにはいかないと思う。つまり」

「独立するっていうことね」

 疑問符ではなく、確認するような言い方だった。

「そう、平日は会社員、週末は伝想家では中途半端なことしかできないと思うんだ。でもそうなると最初は無収入ということになるし、その後も不安定な状態が続くかもしれない」

 妻は頷くことも首を横に振ることもなかった。

「当面はなんとかなるかもしれないけど、匠が大きくなって学費がかかるようになった時が問題だと思うんだ」

 今は給料以外に安定した額が毎月振り込まれていた。
 作詞の印税だ。
 CDの売上枚数に対してだけでなくカラオケなどで歌われた回数に応じても支払われるので、まあまあの額になっていた。
 
「作詞の依頼がこれからもあればありがたいが、そうそううまくいくとは思えないし、カラオケで歌われる回数も少しずつ減っていくことを考えておかなければならない」

 妻は僅かに頷いた。

「独身の時ならすぐに仕事を辞めて伝想家への道を決断したと思う。しかし、家庭を持った今は自分の思いだけで物事を進めるわけにはいかない。君の正直な気持ちを聞かせて欲しい」

 妻はしばらくうつむいていたが、何かを決めたかのように一度頷いて顔を上げた。

「いいんじゃない」

 そして、笑った。

「贅沢さえしなければなんとかなるわよ。あなたの収入がゼロになったとしても、わたしのお給料が毎月入って来るでしょ。匠についても義務教育が終わるまではそんなにお金もかからないから、何かよっぽどのことがない限り大丈夫だと思うわ。それにね」

 笑みが消えて真剣な表情に変わった。

「匠のためにもなると思うの。身近で父親の仕事を見ることができるのは貴重な経験だと思うの。あなたの背中を見ながら成長していくのって素敵だと思わない?」

 すると宮大工の仕事を取材しているわたしの背中を見つめている匠の姿が思い浮かんだ。
 そして、宮大工から色々な道具の使い方を教えてもらっている姿も思い浮かんだ。
 その顔は嬉々としていた。
 
「あなたの血が、いえ、代々続く才高家の血が流れている匠のためにもやるべきだと思うわ」

 その時、匠の泣く声が聞こえたので、あらあら、と言いながら妻は匠のいる部屋に行き、抱っこをして連れてきた。
 しかしまだぐずっていたので眠りが足りないのかもしれなかった。
 その様子を見てふと中華料理店からの帰り道のことを思い出した。
 
「おんぶしてみようか」

 妻に背中を向けた。
 するとすぐに匠の小さな手を肩に感じて、背中全体が温かくなった。
 すぐさま両手を背中に回してしっかりおんぶするとぐずり(・・・)は止み、程なくスースーという寝息が聞こえてきた。
 眠ったようだった。
 
「あなたの背中には敵わないわね」

 妻がちょっと悔しそうな笑みを浮かべた。

「ありがとう」

 心が決まったわたしは同じ言葉をもう一度胸の奥で呟いた。