マヒナが教室へ帰ってくるのに、それから十分もかからなかった。

「紺、タブレット持ってきてくれたんだって? いいやつだなぁー!」

こちらに来るなり、ほっぺをむいーっと挟んでくる。と思ったら、「あー、シチュー冷めてる!」と言って、バタバタと盛りなおしに向かった。マヒナとは幼稚園からいっしょにいるけれど、つくづく自分とは正反対の、明るい嵐のような子だと思う。

ようやく席につくと、マヒナはせっせとスプーンを動かし始めた。

「直接受けとれなくてごめんね。職員玄関に荷物が大量に来たから、みんなで運んでてさ。坂口先輩が残ってくれてて良かった」

その名前が出たとたん、さっきの引っかかりが形になった。明日馬に名乗られたとき、初めて聞いた名前ではないと思ったのだ。

「……坂口明日馬さんって、歌手、なんだっけ」

つっかえながら言うと、マヒナがおかしそうに笑った。

「それ、私も最初は信じられなかった。なんかのグループのメンバーなんだってね」

たしか、入学したころに聞きかじった気がする。一学年上に、県内で結成されたボーカルグループのメンバーがいること。このあたりではあまり知られていないけれど、都市部ではけっこう活躍していて、ファンも増えつつあること。

「でも、あの先輩がステージで歌ってるところとか、ぜんっぜん想像できないわー」

マヒナのつぶやきが、紺の感想そのものだった。声は聞きとりやすかったけれど、特別はきはきしていたわけでもない。表情も静かだったし、大勢の前で何かをする人だとは思えなかった。

(……でも、からかわれなかったのは、ありがたかったな)

この話は、それ以上は広がらなかった。数人の男子が、デザートのタルトをめぐって、じゃんけんを呼びかけたからだ。クラスメイトがわらわらと集まって、ちょっとした騒ぎになる。話を途切れさせた紺とマヒナは、その盛りあがりっぷりに笑いをこぼした。

このときの紺にとっては、少し不思議な先輩に会ったという、それだけのことだった。