秋一くんと桜ちゃんは点呼に来なかった。

何をしているのか容易に想像できたので私も部屋へは戻らなかった。

担任には彼らは疲れて部屋で寝ていると班員として伝え、夕食を食べるためそのままバイキングコーナーへ向かった。

柊くんは特進クラスの友達と合流したため、私は一人ぼっちでひたすらにサラダを食べた。


柊くんが随分と長く友達とご飯を食べているので、もしかして私が言ったこと忘れたのかな……と不安になりながらお盆を返してバイキングコーナーを出た。

ホテルのロビーにある自動販売機であまり好きではないレモンティーを買って、飲み干してから外へ出た。




夜風が冷たく、強い。

大きく息を吸って歩き出す。

散歩をしやすい気候ではあった。

ホテルの近くには海水浴場があって、海の波の音が聞こえる。


どうせしばらく部屋へは戻れないので浜辺を歩いていると、途中で、【今どこですか】と柊くんから連絡が来た。

ホテル近くの浜辺に来てほしいと伝えた。



夜の海は全てを呑み込むように怪しく蠢いているように見えた。

風に吹かれて揺れる髪が顔に当たり、耳にかけた。



柊くんが来るまでの時間がすごく長く感じられた。

昔、公園でブランコをこぎながら待っていたあの時のように。

そして彼は必ず来てくれるのだ。どんなに遅くても、私がわざと弱ったふりをして呼び出していると知っていても。



「……っバカなんじゃないですか」


私の腕を掴んで振り向かせた柊くんの息が荒い。

走ってきてくれたのだ。先程から何度か連絡が来ていたようで充電ランプが点滅している。海を眺めるのに夢中で気付いていなかった。



「そんな急がなくてもよかったのに」
「こんな夜に一人で外へ出ないでください。ただでさえ知らない土地なんですから」


ふぅ、と髪をかき上げた柊くんは、私の腕から手を放す。


小さい頃より走るの速くなったね。

力も強くなったし、男の人みたいなごつごつした手になった。


今更名残惜しく感じながら、気持ちを落ち着かせるように、今度は大きく息を吐く。



長い沈黙が流れた。


私の切り出しをいつまでも待つように、柊くんは何も言わない。

私が話し出すまで待っててくれるのは、あの公園に来てくれた男の子と何ら変わっていない。

その事実に泣きそうになりながら言った。



「私ね、母親の再婚相手がいる県に引っ越すんだ。今の高校も辞めて転校することになる」



柊くんが僅かに瞠目した。

でも、言いたいのはこれじゃない。



「……その話をお母さんから振られた時に、何の不安も焦りも生まれてこなかったの」



お母さんとその再婚相手、そしてその子供と食事をした時に要求されたのが、引っ越しだった。

あの瞬間、驚くほど動揺しなかったのを覚えている。



「私がそうすることで義妹が今いる学校にそのまま通えるなら、って思った」



柊くんと離れたら私はまた生きる指針がなくなってどうしたらいいか分からなくなるんじゃないかとか、柊くんがいないと駄目だとか、嫌だとか怖いとか、そんな感情微塵もなかった。



「私はいつまでも誰かの後ろをついていくんじゃなくて、与える側に回る段階に来てるんだって思った。私“お姉ちゃん”になるんだって。もう柊くんに縋らなくても、この子のために頑張れるって思ったんだ」



義妹(あの子)が望むならどこへだって行ってあげたい。

あれだけ頑張って受験した柊くんと同じ高校を捨てることに、何の躊躇いもなかった。


目の前にいる小さな女の子の方がうんと愛しく感じた瞬間、私はもう大丈夫だと思った。

柊くんからしか得られないものは当然あるけれど、私の人生に柊くんはもう、必須ではないと。



「柊くん」


絶対に泣かないと決めていたのに、自分の声が泣きそうに震えていた。



「私は愚かだったかな」



“可哀想な女”だから大切にされたことも気にかけられていたことも許されたことも全部全部気付いてて利用してたくせに、最後にその柊くんに自分の望む言葉を与えられたいなんて軽薄すぎるね。


私は柊くんという価値のある人間の傍にいてその価値を吸い取れているような錯覚に陥っていて、それを糧として随分と長く生かされてしまった。



「……いいえ」


柊くんの髪も風に揺れている。暗くてよく見えないが、その眼差しはしっかりと私を捕らえている。



「人間なんてそんなものですよ。貴女は賢明ではないですが、愚かでもない。必死に生きていただけでしょう」



いつも罵ることしかしないくせに、こういう時だけ優しい言葉を吐くのだ、この男は。


瞬きをすると涙が零れた。

その涙はなかなか止まらず、自分は今人生で一番不細工な顔をしているだろうと思った。


何を言おうとしても嗚咽になって、うまく言葉を発せたのは、随分と経ってからだった。





「柊くん。私をこれまで生かしてくれてありがとう」




歪だったけれど、私にとっては恋だった。