翌日の昼休み、一人で今朝買ったパンを開けようとしていると、誰も居ない前の席に、弐川くんがどさっと座った。軽そうな痩せ気味スタイルなのに、大袈裟に音を立てるからビクッとしてしまう。


「あやめちゃん久しぶりぃ」

久しぶりって、昨日話したでしょうに。ちらりと弐川くんの席の方を見ると、さっきまで弐川くんと話していた女子と目が合った。女子は慌てたように私と弐川くんから目を逸らす。……ああ、あの子、弐川くんが好きなんだろうな。


「弐川くんって無神経だよね」
「んぇ?」
「あの子。放ってきたんでしょ?」
「あぁ、うん。なんか、つまんなくなっちゃって」


鼻が痒くなっちゃって、のノリであっさり言い切る弐川くんに、思わずパンを食べる手が止まってしまった。表情から察するにおそらく悪気はない。本当に“何となく”つまらなくなり、“気分で”私に話しかけたのだろう。


「……だからって私のところに来ても、面白い芸当は何一つできないけど?」


雨の日だからか、少しハネている弐川くんの茶色っぽい髪の毛。その髪の毛を揺らし、にこりと笑って、


「うん、あやめちゃんはひとっつも面白くないよねぇ」

そう肯定した。


まさかこんなにも直球な悪口を返されると思っておらず、少し反応が遅れる。

「…………そうですか」
「うん。俺のこと好きでもない女に構っても何も得られないもん。面白くないでしょ」


そう言って目にかかるほど長い前髪を指で払う弐川くん。その爪の数本には真っ黒なネイルが施されていて、その派手さに目を奪われていると、「ああ、これ?さっきの子にしてもらったぁ」と今日も色んな女の子と仲睦まじくしていたことを仄めかしてくる。


この人、刺されてくれないかな……なんて思っていると。





「――――弐川くん」

合唱コンクールで特に目立つ、よく通る良い声が教室の外から弐川くんの名前を呼んだ。振り向かなくても、すぐに誰か分かる。




「ひっ……ひひひひ柊くん!?」
「どもり過ぎでしょう。愚鈍さがバレるので大袈裟なリアクションは取らない方が良いですよ」

廊下を見て思わずガタッと立ち上がった私を冷ややかな目で見てくる柊くんの手には、音楽の教科書。どうやら移動教室から帰る途中のようだ。

柊くんはちらりと私の前方にいる弐川くんに視線を移し、「あまり僕の幼馴染みをからかわないで頂きたい」と今を生きる男子高校生とは思えない口調で物申した。


「幼馴染みぃ?……“あの”。へぇ〜」


座った状態で柊くんの言葉を聞いた弐川くんは、ニヤニヤしながら柊くんを見上げる。


「幼馴染みちゃん、お前にベタ惚れなんだろ?近いうちに落としちゃおっかなぁ」


弐川くんが柊くんにとんでもないことを言うから、反射的に食べていたパンを弐川くんの顔に向かって投げてしまいそうになったが、食べ物を粗末にするわけにはいかないので堪えた。

ハラハラしながら柊くんの顔色を伺う。


「どうぞご自由に。清々しますよ」


予想通り冷たい答えを返しているのを聞いて、私柊くん一筋だよ!と言うより先に、校内放送のアナウンスが鳴って全員静かになる。

柊くんはそれを合図にしたかのように私たちの教室の前を去っていった。



「柊ってば素直じゃないねぇ。じゃあ何で口出しにきたんだよって感じィ」

膨れっ面をしながら椅子に座り直す私を前に、弐川くんは無神経にもケラケラ笑う。


「大丈夫かァ?慰めてあげよっか?」
「いらない」
「そりゃ残念。ま、柊はああいう奴だから気にしない方がいーよォ」


そんなの知っている。幼馴染みなんだから、弐川くんよりずっと理解してる。


「柊くんにウザがられてるの分かってるし、柊くんにウザがられるの好きだから平気だよ。柊くんがああいう態度取りながら実は寂しがり屋なのも分かってるし、清々するとか言っといて実際私がウザ絡みしに行かなくなったら【どうしたんですか?】ってLINEが来るのも分かってるよ。だから、全然落ち込んでない。ああいう感じなのはいつものこと」



弐川くんは数秒ぽかんと私を見つめた後、ふふっと口元に弧を描いた。


「あやめちゃんのこと、舐めてたかも」


声音だけが柔らかい弐川くんの、冷たい瞳の奥。
この人何考えてるんだろう?と興味が湧いたのは、それが最初だった。






朝から降り続く雨は放課後になってもやまなかった。


今日は小テストで赤点を取ってしまい、職員室前に置かれた長机での再テストに呼び出されている。

柊くんを待つためには、できるだけ早く再テストに合格する必要があるな、と気合いを入れてシャーペン一本を握り締め歩いていると、曇天のために暗い廊下に、小柄な影が見えた。


それは、昨日弐川くんが“桜ちゃん”と呼んでいた女生徒だった。

制服が違うから中等部の子だろう。幼い顔立ちをしているが、随分と化粧慣れしているようで、発色の良い赤色の口紅はその白い肌にとても似合っていた。

“桜ちゃん”も学年は違えど再テストに呼び出された組らしく、うんうん言いながら漢字と向かい合っている。空いていた隣に座って私もノートを取り出していると、“桜ちゃん”は一瞬固まった後、私をじろじろ見てきた。

隣に座っちゃだめだったかな……と思いながら、視線に気付かないふりをしていると、“桜ちゃん”がその女の子らしい可愛い声で話しかけてくる。


「弐川くんに、ちょっと構われたからっていい気にならないでくださいね」

弐川先輩、ではなく、弐川くん。
中等部なのだから確かに年下なのに、“桜ちゃん”は彼をそう呼んだ。ふわりと香ってくる女の子らしい匂い。どこをどう取っても女として私に勝っているこの子が、今敵意剥き出しの目をして私を見上げているのが不思議に思える。


「先輩は編入生だから知らないかもしれないので、言っておきますけど。あの人先輩の手に負える人じゃないですよ。思春期拗らせたクズなんで」


ペンを走らせて漢字を綴りながら牽制してくる、“桜ちゃん”。色々思うところはあるけれど、どうして私が編入生だって知ってるんだろう、という疑問が先行する。この子はそんなに弐川くんの周りにいる女子を気にしてるのかな……。


「私弐川くんとは別に何も、」
「その“弐川くん”っていうのもやめてください。他の女と呼び方被るの嫌なんです」


遮られ、言葉に詰まる。ああ、そうか。多分、多くの女の子は弐川くんを下の名前で呼んでいるのだ。だからこの子は苗字で……。


がたっと、大きな椅子の音をたてて、“桜ちゃん”は漢字が沢山書かれた紙を持って立ち上がる。再テストではなく提出するプリントがあっただけらしい。






「――“秋一くん”は」


サンリオの缶バッジやらキーホルダーやらをじゃらじゃら付けた制定鞄を肩に掛けて去ろうとする“桜ちゃん”に、言った。



「君の手に負える人でもないと思うよ」

客観的事実を。



“桜ちゃん”は振り向いて軽く私を睨んだかと思うと、大きな足音をたてながら階段を上がっていってしまった。