翌日。

行く先に弐川くんがいないか警戒して物陰から確認していると、「何してるんですか?」と通りすがりの“桜ちゃん”に馬鹿にしたような笑い方をされた。
うう、後輩に馬鹿にされている……でもこれは弐川くんを避けるために必要なことだ。あの人と関わっていたらろくなことがないと私は学んだ。

昨日はあれからお金だけ払ってお好み焼き屋を飛び出て、傘だけ持って雨上がりの道路を走って帰った。
弐川くんはああいう人なのだ。いい加減で、気分で人にキスして、それで謝ってこない人間。できるだけ避けて、弐川くんが私から興味をなくして話したことのなかった頃の距離感に戻るまで待とう。


「もしかして弐川くんを待ってるんですかぁ?」

肩より少し長い自分のツインテ髪を指に絡ませながら、昨日と同じような喧嘩腰で私を見上げてくる“桜ちゃん”。
ああくそ……弐川くんと関わりさえしなければ可愛い後輩に嫌われることもなかったろうに……。


「待ってるんじゃなくて避けてるの」
「ハァ?そうやって弐川くんの気ぃ引こうとするのやめてくれませーん?弐川くんが好きなのは桜なんで」


…………。


「あのさ、君さ、彼氏いるんだよね?」
「いますけど?」
「それは弐……秋一くんじゃないんだよね?」
「好きな人が複数いちゃだめなんですか?」


あまりにも堂々と聞き返されて面食らった。


「今いる彼氏みーんな好きですよ。波はあるにせよ凡そ平等に。弐川くんも他の彼氏も、全員私のモノです。だから――」


私に一歩近付いて、茶色のカラーコンタクトの入った瞳で私を覗き込んだ“桜ちゃん”は、

「私のモノに手ぇ出さないでくださいね、センパイ?」

きゅるんっと可愛らしい上目遣いで圧をかけてくる。


この子にこんなに敵視されているのも全て弐川くんのせいだと思うと、殺意が増した。




一時間目が終わり、二時間目が終わり、三時間目が終わり、四時間目が終わり、何事もなく昼休みに入った。
移動教室もあったけれど、そもそも私と弐川くんは選択科目が被っていないようで、遭遇することはなかった。

授業と授業の間の短い休みもできるだけトイレに行くようにして、弐川くんに話しかけられる隙をなくした。まぁ、肝心の弐川くんはいつも通りクラスの女子といちゃいちゃ話していて、こんなことしなくても大丈夫なような気もするが、弐川くんは気紛れだから油断はできない。

教室にいたところでどうせぼっち飯なのでしばらくは人気の少ない場所で食べよう、と弁当を持って立ち上がる。

編入してきたばかりだし、今まで移動が面倒でずっと教室で食べていたので、ご飯を食べるのに最適な、目立たない静かな場所なんて知らない。とりあえずその辺を歩いてたら見つかるかな……と適当にぶらぶら歩いた。

そうこうしているうちに柊くんの教室の近くまでやってきてしまい、そういえば昼休みの柊くんがどうしているのか知らないなと思った。どういう人と食べてるんだろう。気になって、角を曲がって柊くんの教室へ向かおうとした――――が。


「っ、え゛ッ、」

踏み潰されたみたいな声が出た。

悪運が過ぎるらしく、見上げるとそこに立っていたのはすらりと背の高い弐川くん。
嘘、本当は、見上げる前に分かってしまった。この人の香り、何だかくらくらしそうになる匂いを頭が覚えてる。


「あやめちゃん、お腹壊してるぅ?」
「………………は?」


行く手を阻むように壁に手を付いた弐川くんは、頭一個分ほど低い位置にいる私を見下ろして、見透かすように笑った。


「あ、違うんだァ?じゃあ、俺から逃げてた?」


ぞくり、また背筋が凍る。この人の目が苦手だ。何を考えているか分からない、感情の読めない瞳。

妖しいその目付きに吸い込まれるように見つめ返していると、するりと冷たい指が私の首に触れた。まるで首を絞めるみたいに緩く私の首に手を添えた弐川くんは、少しだけ力を入れて、動けずにいる私にこう言った。


「怯える小動物みたいで可愛いね。縊り殺したくなっちゃうな」


――この人の目が、苦手だ。






しかしその手はすぐに離され、「そーだ」とポケットの中をごそごそする弐川くん。
何かと思えば黒い財布で、弐川くんはそこから小銭を取り出した。

「ん」と手に握らされ、思わず「え?何?」と怯えた声で返してしまう。


「何って。昨日のお好み焼き代でしょお?」
「……あ……返してくれるんだ……」
「返すっつったじゃァん」
「いや、てっきり借りパクとか日常的にするタイプの人だと思ってたから……」
「ひどーい。俺がそんな男に見えるぅ?」


見えるわ。そう声に出してしまいそうになるのを何とか堪え、「わざわざどうも」とポケットに小銭を仕舞った。


「大変だったんだよォ?あやめちゃんすぐどっか行っちゃうしぃ。ま、捕まえられる自信はあったけど」
「……なぜ逃げられるようになったのかご自分の胸に手を当ててよく考えてください」


あなたに反省なんて求めても無駄でしょうけどね。

結局話しかけられる羽目になってしまったが、これでもう用もないだろう。

弐川くんを避けて前に進もうとした――しかし、ずいっと弐川くんの顔が近付いてきた。


慌てて顔を引こうとするが、素早く後頭部に手が回る。昨日とは違って押し付けるみたいに唇を当てられて、愕然として見上げると、憎たらしい笑顔が待っていた。


「こーいうことしたからァ?」


ああ、本当に、この人は、何一つ反省なんかしちゃいない。
弐川くんにとってはこれが普通なのだ。女の子は簡単に手を出していいもので、キスしていいもので、関係を持ったっていいもの。

弐川くんの周りにいる人はみんな、この態度を許容してきたんだろう。

そう思うと、身体の底が冷えていくように、急に冷静になってしまった。


「あやめちゃんは口紅付けてないからいいね」

冷たい親指で私の唇の端をなぞる弐川くん。


「口紅移るの嫌いなの、俺」
「……そう。じゃあ、明日からはべっとりつけてこないとね」


弐川くんの手を振り払って、唇を袖で拭く。
ただの、接触。弐川くんとのキスは手と手が触れ合うのと何ら変わらない、ただの接触のように思えた。漫画やドラマを観て、キスは愛情の証のように捉えていたけれど違ったらしい。こんなに冷たいものなんだ。

怒る気力も失せて、今度こそ弐川くんを通り過ぎたその時、後ろから有難い情報を提供された。


「今日の放課後、柊は生徒会の仕事で中庭の掃除するらしいよォ。一緒に帰りたいなら待ってるといいんじゃなァーい?」


振り返ると、弐川くんは笑っていた。いつもの、楽しそうな笑い方をしていた。

本当に、何を考えているのか分からない。急に私に有益な情報与えてきて、罪滅ぼしのつもりなんだろうか。昨日のお礼のつもりだろうか。

「……どうも」

弐川くんの思考がよく分からないまま、小さくそう言ってその場を後にした。