――――が、しかし。


案の定、ダメージを受けたのは私の方だった。さっきのようにイノシシが勢いよく私の腹部に突進してきて、私は五メートルほど吹っ飛んだ。ゲ◯を吐きそうになった。乙女がこんなことを言ってはいけない。


『ふ……っく、は、はは、はははははははは!!』


擦り傷だらけの状態でお腹を押さえて蹲る私の隣で陽光が腹を抱えて笑っている。

何こいつ、人の失敗を笑うなんてほんとに神の御使いか!?


『度胸だけは褒めてやる』


吐き気を抑えるのに精一杯でその偉そうな言葉に言い返す気にもなれない。


――――……次の瞬間、雪のような花のような、ひんやりとした空気と良い香りがしたかと思えば、ぶわっと神々しい光が周りを包んだ。

光が収まる頃私の前に立っていたのは、銀色の髪と尻尾を持つ、真っ白で上質な着物と紺色の羽織りを身に纏った――背の高い男の人だった。


彼は懐から紅の扇を取り出すと、再びこちらへ走ってくるイノシシに向かって風を起こした。



「宇迦之御魂神よ、我を清めし者よ。
不浄の闇を追い払い、聖なる光をもたらさん。
心に宿る汚れを浄め、純潔なる魂とならしめよ。
神聖なる存在よ、我に力を授け、清めの光を宿らしめよ。
不浄を祓い、純粋なる心と身を創り上げん。
宇迦之御魂神よ、我らの守護者としての使命に導き給え。
清めの力を以って、清らかなる存在とならん。」



彼がそう唱えた次の瞬間、風に吹かれて散る花のように、イノシシの姿がさらさらと消えていった。

イノシシが消えた後、きらきらと空から光が舞うような、美しい光景がそこに広がっていた。


思わず見惚れていると、イノシシを祓ったらしい彼がくるりとこちらを振り返る。


「お前にはまだ早かったな」


見知らぬ彼が物凄く馴れ馴れしい感じで話しかけてくるので驚いてぽかんとしてしまった。


「えっと…………」
「どうした?」
「どちら様でしょうか……?」


すると、彼はひくりと片側の口角をひくつかせたかと思うと、ゲンコツで頭を殴ってきた。


「痛ッ! 何すんですか!」
「陽光だ」
「陽光!? 狐だったじゃん!」
「お前は神の御使いを舐め過ぎだ。当然人の姿にもなれるに決まってるだろ」


人の姿って言っても尻尾生えてますが……と思ってちらりと陽光の後ろでふぁさふぁさしている尻尾を見つめると、「ああ、忘れていた」と言って陽光は尻尾を引っ込めた。

自由自在すぎてびっくりだ。


「本当何でもできるんだね……。例えば私のこの怪我も治せたりする?」


イノシシに吹き飛ばされた時にできた腕や足の擦り傷を指さして頼んでみるが、陽光は何もせず、ただ蹲っている私に手を差し伸べてきた。


「痛みは自分で背負え。人はそうやって成長するんだろ」
「……」


そう言われて思い出したのはおばあちゃんのことだった。


   ――瑠璃音ちゃん。人は、痛みを背負って成長するのよ。


幼い頃私が公園の鉄棒から落ちて大泣きした時、おばあちゃんは私をそうなだめてくれた。それ以降、友達と喧嘩しちゃった時も高校受験で第一志望に落ちた時も、この傷付いた経験や悔しい経験を背負って成長していくんだと思って立ち直ってきた。


「……あんた、ほんとにおばあちゃんとずっと一緒に居たんだね」


おばあちゃんが私に遺してくれた眷属。おばあちゃんが私のために傍に置いてくれたお狐様。それを私はずっと無視してきた。


「助けてくれてありがとう。今までずっと、陽光に気付いてなくてごめん」


陽光の手を取り立ち上がった。

私が六歳からだから……約十年。陽光は、自分の存在に全く気付かない私の傍で私のことを見守ってくれていたんだ。


「まったくだ。この節穴が」


私の言葉に陽光が柔らかく笑った。

酷いことを言われているのにその笑顔に不覚にもどきりとしてしまい、ハッとして顔を横にぶんぶん振った。


(私、気が多すぎ!? これじゃイケメンだったら誰でもいいみたいじゃん!)


「私には翠波さんという人が……!!」


激しく顔を横に振ってきゅんとしてしまった自分を否定するが、そんな私の気持ちなど露知らず、陽光は「お前は情緒不安定だな……」と呆れたような目で私を見ていた。