「リオ様。カンバーランド公爵令嬢アナスタシア様がお見えになりました。」

 里桜は、リナから指導を受けた礼をして、アナスタシア嬢を迎える。そこには少しだけ赤みのあるブロンドの綺麗な黄緑の目をした女性がいた。

「お顔をお上げください。リオ様。」

 その言葉で、体勢を元に戻す。

「私は、カンバーランド公爵の娘アナスタシアと申します。お座りになって、リオ様。」
「ありがとうございます。」

 アナスタシアの向かいの椅子に腰をかける。

「トゥーレーヌ宰相からお話があったと存じますが、私がこれからリオ様にここでの礼儀作法やこの国の歴史などのお話をさせて頂きます。お話は問題なく交わせると聞いておりますが、読み書きの方は?」
「侍女のリナに確認しましたところ、私が書く文字も文章も問題なく読めるようでございます。本を数冊と新聞を数紙持ってきてもらいましたが、読む事も問題なく出来るようでした。しかし、オリヴィエ参謀にお借りした、年代物の戦記などは、文章が古く読めるのですが、理解をする事ができませんでした。」

 アナスタシアは出された紅茶を優雅に口へ運ぶ。

「…あぁ。では、古くて今は使われていない言葉があるので、そういうものはきっと理解できないのでしょうね。」
「地方で発行された新聞も問題なく読めました。」
 
 優しく微笑んで口を開いた。

「地方の言葉は私でもまだ不確かな事が多いので、羨ましく思いますわ。はい。分かりました。洗礼をするまでは、救世主様かどうかは、私では判断できない事ですので、リオ様が救世主様になっても困らないようにしっかりとお教えいたしますわ。まず、救世主様になると、古くから伝わる魔術書なども読まなくてなりませんので、古文の勉強はしないとダメですね。あとは、洗礼後はお披露目の会なども催されますので、その際のマナーなど。お勉強頂く事は山のようにございます。今日は挨拶だけと致しますが、宰相とも相談致しまして、タイムテーブルをお作りしますね。」


∴∵


「リオ様。ハーブティーご用意致しました。こちらの窓側の席へどうぞ。今日は一段と良い風が入ってきていますよ。」
「…リナさんは、私を甘やかすのが上手いですね。この三日間でものすごい上達ぶりです。」
「あらっお褒めいただきまして。お疲れの主を癒やすのも、侍女の大切な仕事なのですよ。この三日間入れ替わり、立ち替わり人がやって来てあーでもない、こーでもないって言って帰るのですから、お疲れになるのも仕方ありません。」
 
 リナはにっこり笑った。


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「うーん。いつになってもこの感覚に慣れない。」
「前におっしゃっていた、文字を書く感覚のお話ですか?」
「はい。そうなんです。私としては、お誘いいただき…って日本語で書く感覚で書いているのに、ロッシュ語を書いているんです。手が思った通りに動いていない感じが、ものすごく気持ち悪いんですよね。この感覚には、暫くは慣れないと思います。なれるのが先か、覚えるのが先かです。因みに、私の国の言語は横だけじゃなくて、縦にも文章が書けるんですけど、縦に文字を書こうとすると、書けなくなっちゃうみたいなんです。」

 異世界からの渡り人の召喚が無事に行われたと、正式に発表されて、新しいものが好きで、娯楽に飢えている貴族の方々から早速お茶会の誘いが引っ切りなしに来ている。リナと一緒にその招待状の内容を確認して、結局全て断る事にした。

「まだ、アナスタシア先生からマナーの‘マ’の字も教わっていないのにそこでなにか粗相でもしたら…。」
「そうですね。まだ、人間関係もはっきりと分からないうちは、極力お誘いは避けて頂いていた方が良いのかもしれません。前にも兄やアラン様が仰っていましたが、渡り人様の力を利用しようという邪な考えのお方もいるかもしれませんし。」

 里桜は、ひとつ頷いて、再び筆ペンを走らせた。


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 日も傾きかけた頃、もう元の世界へ帰れないと聞いて、辛くて見る事が出来なかった鞄を久しぶりに開いてみた。
 テーブルの上に中身を一つずつ出していく。お財布、古本屋で買った読みかけの本、交通系IC、従業員証、タオルハンカチに家の鍵。お財布を開いてみる。銀行のカード、クレジットカード、紙幣が一万とちょっと小銭も少々。
 そこには日本で早崎里桜として生きてきた私が詰まっていた。

「あれっ!?」

 鞄をもう一度探ってみても、鞄の中は空だった。

「あの時…喫茶店でとしこさんにぶつかって、私もスマホ落としちゃったんだ…」

 どうせ、こちらにいたら使えないと分かっていても、スマホがあれば、映した写真くらいはしばらく見られたのに。
 次に、本をパラパラとめくってみた。縦書きは書く事が出来なくなっていたけれど、本は読めるみたい。その時、本の隙間から足元へ何かがハラリと落ちた。拾うと見た事のないしおりだった。
 前の持ち主の物なのか…それにしても、今まで見つからず、挟まったままだったのは珍しい。

「このしおりもまさか異世界へ連れられて来るなんて思ってもいなかったよね。なんか不思議。」

 鞄の中は今の私には役に立たない物ばかり。今まで自分が一生懸命に守ってきた物は無意味になった。

「守ったなんて…大したこと出来ていたわけでもないけどね。」

 それでも、私にとっては大切な事だった。それはもうまるで無意味なんだ…。
 しおりを胸に当てる。何故、紛れていたのかは分からないけど、鞄に入っていた物の中で唯一この世界でも役に立つはずの物。ずっと肌身離さず付けていた手作りのピアスとこのしおりを私の宝物にしよう。日本で私が生きてきた証だ。
 怖がっていても仕方ない。ちゃんと洗礼を受けよう。この世界で生きていくために。