んな、人生で一番緊張したことって何?
 わたし? わたしは今まさに、その瞬間に立っているの。


「―ごめんね、急にこんなことになって」
 顔の前で手を合わせてあやまる九條 錬。彼はぜんぜん悪くない。
「だ、だだだ大丈夫です……」
 ぜんぜん大丈夫じゃないけど。だって、この前デート(けっきょく仕事みたいなものだったけど)したばっかりで、次が……。
「じゃあ、どうぞ入って」
「は、はいっ……」
 マンションの最上階の一番すみっこ―九條 錬の部屋の中へとさそわれる。
 わたし、今日は九條 錬とお泊りです……!

                   ***

 ―さかのぼること、一時間前。茨木さんから、九條 錬所属の事務所に緊急呼び出しされた。
「九條 錬が風邪を引いた~?」
「ええ。わたしもおどろいてる。今日は次のライブのリハーサルの予定だったんだけど、本人から連絡があって急に休みになったの」
 茨木さんの顔はすっかり青ざめている。ただごとじゃない様子に、不安がふくらむ。
「発光星人でも、風邪をひくことってあるんですか?」
「それがねえ……バカみたいに体力があるし、めちゃくちゃむずかしいアクロバティックなダンスで体を痛めたこともない。もちろん、ただの一度だって体調をこわしたことがないの」
「え~、じゃあ何でこんなことに~」
 まさか、この前の外出先で何かのウイルスに感染した? 地球人のわたしたちには平気でも、エイリアンの体で突然変異とか……。
「とにかく、錬が心配なの。とつぜんたおれたり、意識を失ったり、何が起こるか不安で不安で……一晩中、しっかり見張っていないといけないわ」
「分かります!」
「だから、あなたには今夜、錬の家に泊ってもらうわ」
「はいっ、わかり……ええ? おっ、お泊り?」
 びっくりし過ぎて目が点になる。聞きまちがいかな~と思って、もう一度たずねる。
「わたしが、九條 錬の家にお泊りするんですか?」
「そうよ」
 茨木さんはしっかりうなずく。聞きまちがえてなかった!
「な、何でわたしが……」
「本当はわたしが行くべきなの。でも、どうしても外せない用事があるのよ……だから、しかたなくあなたに頼むの! いい? しかたなくよ! し・か・た・な・く!」
 そこまで言われるとヘコむんですけど……。
 茨木さんは鼻にしわをよせたこわ~い顔のまま、わたしの肩をつかむ。そして、こう言った。
「ぜったいに、ヘンなマネだけはしないでね!」
「わっ、分かってます!」
 茨木さんに言われなくても。推しの家にオジャマするなんて、心は洪水みたいにめちゃくちゃだけど……。
 この重要任務、カンペキにこなしてみせます!

                   ***

 玄関からクツを脱いで上がるこの段差の向こうは、未知の世界。
 ロボットみたいにぎこちない足取りで、とにかく九條 錬の後についていく。
「ここがリビングだよ」
 とびらを開けた先の部屋―は、とってもシンプルだった。
 赤いソファと、小さな白いテーブル、パソコンとテレビが一台ずつ……最低限の物しか置いていないかんじ。
「寝るときは二階の部屋使って。あと、気をつかわなくていいから、ゆっくり好きなことしてて」
「好きなこと……」
 やばい。頭まっ白だ。ゆっくりなんてとてもできないよ~……って、あれ? そもそもわたし、何しに九條 錬のマンションに来たんだっけ?
「ああ! そうだ!」
「うわっ、どうしたの?」
「こっちのセリフですよ! 風邪はどうなったんですか? ムリして出迎えしてくれたんですか? はわわわっ、ごめんなさい! わたしが看病しに来たのに……」
「あ~」九條 錬は苦笑いをしながら、ゆっくり目をそらす。「そうだったね。うん。あのさ、もうだいぶ良くなったんだ。ぜんぜん元気だから」
「本当ですか? ウイルスが体の中で爆発しているとか……」
「ないない。ぜったいにない」
 む~。でもたしかに、あっけからんとしている。本人の言うとおり、治ったのかな? いや、でも分かんない。何が起こるか分からないから、ちゃんとお世話しなくちゃ! お世話といえば……。
「あのっ、お風呂にしますか? ご飯にしますか?」
「え? えーっと……」
 九條 錬が困ったように頭をくしゃくしゃする。
 し、しまった~! 
 わたしとしたことが、さっそくヘンなことを……やばい、茨木さんに怒られる……。
「えっと、ヘンな意味じゃなくて! 風邪なら汗かいただろうからお風呂もいいかな~って! お腹も空いてるんじゃないかな~って! ただそれだけです!」
「ああ、そう……じゃあ、お風呂の用意をたのんでもいいかな?」
「はいっ。お任せください!」
 教えてもらったお風呂場まで走って、すぐにバスタブにお湯をためる。しんちょ~に温度をたしかめながら、ちょうどいいお湯加減を目指す(じつはわたし、民宿でもお風呂のお湯加減に関してはパパとママより上手なんだ~)。
 ん~、でもなんか物足りないなあ。入浴剤とか入れた方がいいかな? それともミルクお風呂? バラ風呂?
 九條 錬のふだんの疲れをいやせるいい方法は……。
「何してるの?」
「あ、あともうちょっとでたまるんで」
 九條 錬が中に入って―「ん?」って、バスタブからのぼる湯気を見ていっしゅん顔をしかめた。
「あ~、茨木から聞いてなかった? ぼく、熱いお風呂ダメなんだよね」
「え。そんなに熱くはしてないですけど……」
「ううん、そうじゃなくて。ぼくら発光星人は、マイナス0度以下でないと入れない」
「マ、マイナス!」
「そうじゃないと……」
「ど、どうなるんですか?」
「たぶん、死ぬ」
「ええ!」
 看病しに来たわたしが九條 錬をころしちゃうなんて、ぜったいダメ! 
「分かりました! 今すぐ、氷入れます、氷!」
「いや、風呂場で急に走ると―」
 ずるんっ!
 どんっ!
 足をすべらせたかと思うと、思いっきり転んで、思いっきりタイルに頭を打ちつけた。
 あー、何やってるんだろう……最近のわたし、やる気が空回ってるなあ……。
「大丈夫? 未空! 未空―……」
 九條 錬の声も遠くなっていく。茨木さんにあれだけ言われたのに、ヘンなことばっかりして……。
 みなさん、お風呂場はすっごく滑りやすいので気をつけましょうね……がくっ。

                   ***

「……はっ!」
 目が覚めると、リビングのソファで寝ていた。数十センチ先で、九條 錬はパソコンに向かって体をゆらしている。
 真っ暗な部屋の中だとよく分かる。九條 錬はエイリアンだ。全身から、やわらかい光を放っている。
 引き寄せられるように、一歩一歩近づく。
「何してるんですか?」
 びくっ。すぐにこっちをふり向いた。パソコンの画面は、ダンス練習をしている九條 錬本人の動画。
「びっくりした~」
「ごめんなさい。あの、わたし」
「気は失ったけど、怪我はしてないから大丈夫。目覚めてよかった」
 う~、なんたる失態。看病しに来たのに、逆に看病されるなんて。
「本当にごめんなさい」
「いいって。気にしないで」
「あの……その動画って、次のライブでやる新曲のですか?」
「そう。カンペキに覚えないといけないからね」
「そんな無理しなくても」
「みんな、ぼくがカンペキにできる姿を求めてる。それなら、カンペキ以上に仕上げないと満足してもらえないから」
「九條 錬は、アイドルの鏡ですね」
「ていうか、これくらいしないとダメなんだよ。ライブ前はいつも緊張してへたり込んじゃうし、歌詞を忘れちゃうこともある……茨木には秘密にしていてほしいんだけど、風邪っていうのはうそだったんだ」
「ええ? そうなんですか?」
「リハーサルをちゃんとこなせる自信がなくてね。今日は家で一人で練習したかったんだ」
「なんだ……よかった」
 ほっと胸をなでおろす。あれ。でもそれなら、よけいにわたしはいらなかったんじゃない?
 画面の向うがわにいる自分を見つめる九條 錬。まばたき一つせずに、ただじーっと。
「どうか、したんですか?」
「……本当のぼくは、すごくおくびょう者なんだって話だよ。カッコ悪いだろ」
「え、どこがですか? カッコ悪いって自分で言っちゃう方がカッコ悪いです」
「そうなの?」
「ファンでも、アイドルでも、地球人でも、エイリアンでも。こわいものはこわいですよ。でも、こわくなくするためにがんばる自分を、カッコ悪いなんて言って傷つけるのはダメです。もっと自分を大事にしなくちゃ」
 なんてエラそうに言ってるけど、これはぜーんぶ葉月の受け入り。あれは初めてレギュラーに選ばれた試合だった。でも、緊張で体はガチガチ。普段ならしないようなミスを連発していた。
 試合が終わった後、葉月は目を真っ赤にして言ったんだ。「カッコ悪くない。このミスを引きずる方がカッコ悪いし、おれはまだまだがんばれる」って。
 数回まばたきをした後、「あはは」とほおをゆるめる。
「なるほどね。そういう考え方もあるんだね」
「勉強になりました?」
「そういうこと言ってくれるから、未空の前だとついつい気を抜いちゃうんだよね」
「いいじゃないですか。ここは九條さんの家で、わたしは家族の設定なんですから」
「ん~、でも、ぼくのファンでもあるわけだから」
「だから、こんなことでいちいちゲンメツしないですって」
 九條 錬はじっとわたしを見つめる。ぽんっと、指にはさんでいたペンを床にほうり投げた。
「前から聞きたかったんだけど、何でずっとぼくのファンをやってくれてるの?」
「え?」
 推しに理由を聞かれるって、ヘンに緊張するなあ。「えっとですね……」ひざをつき合わせてこすりながら、ゆっくりと話を切り出す。
「わたし、ずっとトクベツにあこがれていたんです」
「トクベツ?」
「いつもテストで一番をとる子、足が速い子、友だちがいっぱいいる子……そういう、トクベツな子がうやらましくて。でもわたしは、すごくふつうで、できないことも多くて、死ぬまでずっとつまらない子なのかなあって……そんなとき、親友にさそわれたライブであなたに出会いました。あなたはきらきらしていた。九條 錬を応援しているときだけ、わたしもトクベツになれた気分になれるんです。まあ、応援しているだけなんですけど」
「ぼくと一緒だね」
「え。どこが?」
「ぼくたち発光星人の光の源って、何だと思う?」
「さあ……」
「自信だよ。ぼくたちは自信が強くなれば強くなるほど、光が大きくなる。だから、発光星では、自分が一番って思ってるやつばかり。ぼくはぜんぜん自分に自信が持てなかった」
「ええ?」
 意外な告白。
「だけど、地球に来て、ファンっていう子たちに出会えて、ようやく自分に自信を持てるようになった。だから、ぼくもきみと一緒だよ。出会えて、トクベツになれた。そして」
 九條 錬の右手が、わたしの左手に重ねられる。そしてぎゅーっとにぎられる。
 やさしくて、あたたかい。なぜか分からないけれど、なみだが出そうになる。
「未空が一緒にいてくれるから、もっともっとトクベツを目指せる」
「……」
「でもきっと、大変なこともある。ねえ。ぼくに触れるのは、こわくない?」
 手をにぎる力が、弱くなる。
「こわかったら、やめていいよ。つらくなったり、苦しくなったらやめていいよ。ここを出て行って、ぼくや茨木につかまらないところまで逃げればいい」
 九條 錬の口調は落ち着いている。
 一緒にいて、いろいろ不安はある。でもそれは、「こわい」とか「逃げたい」っていう気持ちとはちがう。いつも考えているのは、「どうしたら九條 錬を幸せにできるか」っていうことだけ。
 だから、わたしの右手を弱々しくにぎる九條 錬の左手に、あまっている自分の左手を重ねて置いた。
「ここに……います。わたしは大丈夫です」
「こわくないの? こんな、全身が光っているような不気味なやつ」
「なんていうか……かわいいです」
「かわいい?」
「ホタルみたいで」
「何それ。食べ物?」
 予想外の言葉に、思わずふき出す。そっか、知らないよね。
「生き物ですよ。ここら辺では見かけないですけど、わたしのおばあちゃんの家の周りでは、いっぱい飛んでいますよ。九條さんみたいに、暗い夜の中を光っています。すごくきれいで、あたたかいんです」
「へえ」
「それにわたしはファンです。ちょっとやそっとのことで、逃げたりしません。推しの光は、かならずわたしが守ります」
 大事な光だ。わたし以外のファンにとっても。
「いつか見に行きましょうね、ホタル」
 九條 錬が目を丸くする。でも、わたしは心の底からそうしたいって思った。
 たとえ演技でも、うそでも。
「わたしたち、家族なんですから」
 九條 錬の両目が見開かれる。ひとみの中は波のようにゆらゆら揺れていている。手を引っぱって、そのまま抱き寄せる。耳元でささやき声が聞こえた。
「……そうだね」
 うれしくて、恥ずかしくて、胸はずっとどきどき鳴りっぱなし。
 あまりにも距離が近すぎて苦しい。それなのに。ううん、だからこそ、目の奥がじーんと熱くなって涙が出そうになる。
 よく分からない。きっとこれは、ただの予感。
 九條 錬がどこか遠くに行ってしまいそうなんて、気のせいにきまってる。
「ホタルを見に行くまで、どこにも行かないですよね? お金がたまったら、すぐに帰るとか」
 こんなわがまま、聞こえなければいい。でも九條 錬の耳にはしっかり届いたみたいで、わたしを自分の胸からべりっとはがすと、びっくりしたような顔で見つめた。
 しばらく無言で向き合っていたら、ふっとやわらかい笑みをこぼす。
「……きっかけはお金だった。でもね、ぼく、ステージから見える景色が好きなんだ。暗い照明の中で、ファンの子たちがふってくれるたくさんのペンライト。その光景がぼくの星によく似ていて、自分は一人じゃないってほっとする。そして、アイドルを続けている。だから、大丈夫。急に帰ったりしないよ。約束だ」
 九條 錬が小指を差しだすから、わたしも指きりの準備をする。でも彼のスマホが鳴って、それは茨木さんからだった。
「大丈夫だって。何も問題ないから。え? 未空ならもう寝てるよ」
 スマホに耳をくっつけたまま、目で合図される。わたしはにっこり笑って、口の動きだけで「おやすみなさい」と伝えてリビングを出た。
 とびらによしかかって、残った小指を見つめる。
 大丈夫。九條 錬はわたしの推しだ。それは永遠に変わらない。
 立てていた小指を折り曲げて、ぎゅっとこぶしをつくる。
 これがわたしの、約束だ。