僕は僕だ。でも僕たちも僕だ。僕たちはいつも一緒だ。誰かが食事をすると、僕は飢えずに済む。僕が食事をすると、その分僕たちにも少しずつ栄養がまわる。僕は一人であり、僕たちでもある。
僕が、僕たちがいつからここにいるのかは忘れてしまった。僕たちは少しずつここで食事をとる。
ここはいいところだ。適当に薄暗くて暖かくて、食事もまだまだ十分ある。
いいところというのは、他の奴らも来るということだ。いま、僕たちのだれかがなにかにくわれた。ぼくはいたくはないけれども、だれかのいたみはすこしわかる。どこのだれかははっきりしないが、ぼくたちのうち誰かが食べられた。僕たちを食べに来るのは何種類かいるらしい。だいたいは端っこの、ときには上の、少し乾いた誰かが食われる。僕たちは少しずつ動いていて、誰もが端になり、真ん中にもなる。いつも気が付くとそこにいる。一番端っこになれば、奴らに食われる危険性も高まる。その緊張はいつも伝わって、でもそれが誰のものかはいつも違っている。
例え真ん中だからといっても安心できない。真ん中の、食べ物も水分もたくさんあって幸せの時間も食べられて終わることもある。奴らは大きかったり小さかったり、大きな歯でかみついたり小さな歯で削り取ったり、いつの間に僕らにくっついて溶かしていったり、食べられ方はいろいろだ。あ、また、だれかが、こんどはなんだ、けずられて。ぼくらはしょっちゅう食べられる。
誰かが食べられたところには、いつの間にか別の誰かが場所を埋めている。新しい僕ら。僕たちはみんなで一つなので、新しい誰かも僕らだ。一方で、古くなった誰かがいつの間にかいなくなっていることもある。例え僕が直接会ったことがなかったとしても、それも僕たちだ。少しの消失感とみずみずしい生命力を、いつも同時に僕たちは感じている。