杜を覆う木々の中、ひときわ大きな楠があった。太い幹に数え切れないほどの枝を伸ばし、葉をびっしりとつけていた。下から見上げると、天を覆う傘のようであっただろう。

一つの枝が、その傘の外まで伸びていた。枝先には、いつの頃からか一羽の鴉が止まっていた。黒黒とした羽根はしかし見る角度を変えると青とも緑とも色を変えた。太くて頑丈な嘴をもって、人間は「ハシブトガラス」と名を与えていた。

鴉は遠く、空の彼方を見つめていた。その視線の先には立ち込める雲が沸き立っていた。雲の中には稲光。風の向きから、程なくこちら側にも流れてくるだろう。

鴉は思案していた。もちろん人間のように明確に言語で考えているわけでもない。だが鴉にも先を予想する能力は少しはある。

雲の下では雷雨だろう。こちらに来るということは、そのうちここも雷雨になる。そうなると、飛ぶことも容易ではなくなる。

どうしよう、まだ腹が満ちていない。だが今はまだ飛び立てない。

鴉の右脚にはテグスが絡まっていた。先程から解こうと苦心していたのだが、如何せん嘴だけでは埒が明かない。やがて疲れて遠くを見ると、近い将来の苦悩までもが見えてしまった。

鴉は、カァ、とよく届く声を上げた。誰かが気づけば何とかなるかもしれない。カァ、カァ、と続ける。少し待っても返答がなかった。この広い杜には自分しかいないのではないか、という思いがもたげたとき、

「どうしたのですか」と木の下から声が聞こえた。

無論、鴉に人間の言葉は理解できない。だが理解できたということは、誰の声か。

鴉は声のする方に降りることにした。

ああ、この杜の社の眷属であったか。

モコモコと首周りに鬣を生やした阿行の狛犬に、テグスが絡まった右脚を差し出した。

「ああ、これは大変ですね。足の先が取れかかっている。早く外さないと」と吽行の狛犬も覗き込んできた。

二体の狛犬が試みるも、如何せん狛犬の足はそれほど器用ではない。

しばらく格闘していると、社の扉が開いた。

実際には開いていないのだが、鴉には開いたように見えた。

中からは五光が差し、後光で姿や表情が判然としないものが出てきた。ように見えた。

二体の狛犬はいつの間にか下がり、鴉はそのものと相対することとなった。

光が伸び、鴉も届くようになると、右脚のテグスはもうなかった。自分の傍らに、自分だったものがテグスを付けたまま横たわっている。

鴉は神の眷属とされたようだった。

社に邪なものが来ると狛犬たちと協働して追い払い、何もなくては社の周りを漂って。そうして鴉は幾歳月を過ごすようになっていった。