そうだ。覚えている。文化祭の終わり、保健室で昴夜の怪我の手当てをしているとき、同じようにキスをねだられたのだ。
あのときは、わけが分からず逃げ出した。昴夜は私を好きではないと思っていたし、私は侑生を好きになりたくて必死だったから。昴夜のそれは、悪質な冗談か悪戯なのだと思って本気にしなかった。
でも、そうじゃない。昴夜は私を好きだったから……それでも私が侑生と付き合っていたから。
これはきっと、昴夜に言える精一杯の「好き」だ。
用の済んだ手を離そうとして、逆に掴まれた。でも逃げられない強さじゃなかった。怪我をしている左手だし、まるで添えるような優しい掴み方だった。思い切り引き抜けば易々と逃げられるだろう。
それでも逃げずにいることが、「好き」を口にできない私の、過去に対してできる精一杯の反抗だった。
「いいよ」は言えなかった。例によって声が出なかった。
「……なんで?」
代わりに、それは口にできた。
「……なんとなく」
昴夜も、私を好きだとは言わない。
私はなにも答えられなかった。私が黙って視線を落としているせいか、昴夜も黙っていた。
沈黙が落ちるばかりで、昴夜はキスなんてしなかった。
「……ごめん、じょーだん」
安っぽいパイプ椅子が、ガタンと音を立てる。それで金縛りが解けたかのように、私も顔を上げた。
「前にやって怒られてるからね、同じことはしないよ」
「……そういえば怒ったっけ」
「そりゃ怒るよね、彼氏の親友にキスされたら」
どこかわざとらしく笑いながら、昴夜は私の代わりに余った包帯やハサミを片付ける。
「ごめんね。二度としないから安心して」
行こう。昴夜が先にカバンを持った。
私は、力の抜けた足で立ち上がる。扉を開けて待っている昴夜のもとへ、ゆっくり歩み寄って。
抱き着きたかったけれど、まるで足に根が生えたかのように、それもできなかった。
「じゃ、俺先に帰るね。手首ありがと」
私にできるのは、昴夜の背中を見送ることだけ。言葉だけでなく、動作に対する制約も課せられているらしい。
つまり、ここで昴夜に抱き着けば未来が変わってしまうのだ。それは告白と同義だから。
裏を返せば、いまの私は「こうしていたら未来は変わっていた」ばかり突き付けられている。
「……なんで、言えないんだろう」
高校二年生に戻ってきたのだと分かったときは、混乱しながらも期待していた。未来を変えられる、あの事件を起こさずに済む、十四年後も昴夜がいるかもしれない未来に変えることができると。私が侑生と別れて昴夜に告白さえすればいい、そうすれば幸せな未来が待っていると。
後悔だらけのこの過去を書き換えることができる、と。