「英凜、このバケツ持って行って」

 お母さんがずいと差し出した掃除道具を受け取る。拍子に、柄のひび割れた柄杓が、鐘でも鳴らすような音を立てた。

 ガランガラン、ガランガラン、そんな間抜けな音を響かせながら、本堂の隣にある掃除道具置き場まで歩く。陽光は松の木に遮られ、その道もおかしなくらいに涼しい。掃除道具置き場には、他の檀家《だんか》のバケツと柄杓も置いてあって、空いているスペースに、他に習ってバケツを引っ繰り返して置き、大きく「三国(みくに)」と書いてある面を手前に向けた。

 シャワシャワと、まだ名前の知らないセミが鳴いている。ジジッと、そのセミが飛び立つ音を聞いて顔を上げると、松の葉の隙間から真っ青な空が見えた。

 青い海を、思い出す。十余年前に訪れた、白い砂浜と青い海の光景が頭に浮かんだ。

 それをきっかけに、次々と思い出が甦《よみがえ》る。お祖母ちゃんの家、(はい)(ざくら)高校、そして――……。

 車の近くに戻る頃には、肌はじんわりと汗ばんでいた。お母さんは叔父さんの車の扉を開けて換気しているところだった。日陰に停めておいたとはいえ、この炎天下に十五分放置すれば立派な蒸し風呂のできあがりだろう。


「お母さん、私、ちょっと出掛けてくる」

「ちょっと出掛けるって、どこに?」


 会う友達はいないんでしょう、そう言いたげな顔が振り向いた。


「……懐かしいから、ちょっとぶらぶらしようかと」


 お祖母ちゃんの家に行きたくなった、とは言う気にならなかった。


「そう? いいけど、夕飯は(まさ)(ひろ)叔父さん達も一緒だからね、お店に直接来る?」

「そうする」


 もう三十歳の娘が見知った田舎町を散歩するのに何を心配することもない、そんな様子で、お母さんはさっさと車に乗り込んで行ってしまった。