今、僕は兄がチャリティコンサートで演奏したホールの最前列の席に座っている。両親と5人の音楽関係者も最前列に座っていた。僕のすぐ隣に父が、その隣に母が座っていた。間3つ座席を空けて5人の音楽関係の人たちが座っていた。
 ステージの上にあるスタンウェイのピアノの前に兄が緊張した面持ちで座っていた。しばらく鍵盤の中央を見つめた後、兄は弾き始めた。先日兄が弾いていた兄の作曲した曲であった。あの時聞いたのは途中からだったから始めから聞くのは今回が初めてであった。何という静かな出だしなんだろうか。しかしその静けさの中にも何と多く音が響いているのだろうか。星の数ほどにも思える無数の音が敢然とした調和の中で鳴り響いている。信じられない程の静けさの中で信じられない程多くの音が鳴り響いている。これらの音の響きが沈黙ではないかと思わせる静けさであった。一瞬沈黙ではないかと思わせた静けさがいつも間にか、これが沈黙ではないことに気付かせる程に変貌してきた。静けさは少しずつそのメッキを剥いでいった。やがて静けさは静けさでなくなり沈黙とは程遠いものになっていた。あの星の数程にも思えた無数の音はいつの間にか数えられる数になっていた。これ程少ない音でこれ程の大音響になるとは信じられないことであった。やがて少しずつ音が増えていき星の数程の無数の音となっていた。大音響は少しずつ静寂へと変貌していき本物の沈黙となり曲は終わった。