「あ、こんにちは、おかえりなさい」
笑いながら、ちょこちょことうしろに下がって道を開けると、帝王さんは形のいい唇をゆっくりと開いた。
「なに、してるの?」
「掃除です!私、家事は得意なので、なにかお手伝いできたらと思って。今、掃き掃除が終わって、水拭きをしているところなんです」
笑顔で、水拭きが終わった目の前のエリアを指さすと、帝王さんは「ふぅん」と床を見て、黒のブーツで指さした場所を踏む。
それから、スキニーパンツのポケットに手を入れて、赤い汚れがついたハンカチをひらりと、私の前に落とした。
「それじゃ、これも片付けておいて」
抑揚の少ない声でそう言うと、帝王さんは奥の階段へ歩いて行く。
そのうしろを、真面目そうな雰囲気の男の人がついていった。
「あ、はい!」
帝王さんの背中に向けて返事をしたあと、私は床に落ちたハンカチを拾い上げる。
この汚れ、血かな…?
けっこうな量だけど…。
「帝王さん!どこか怪我を?」
立ち上がって声をかけると、玄関ホールにいたNight Empireの人たちに、“なに言ってんだ”みたいな目を向けられてしまった。
そんなおかしなことは言ってないと思うんだけど。
階段の手すりに手を置いて、少し振り返った帝王さんは、気だるげに私を見る。
「なんで?」
「ハンカチが血だらけなので…大丈夫ですか?」
「…俺の血じゃないよ。返り血、拭いただけ」
「え…」
これが、返り血?
びっくりして、ハンカチを見てから帝王さんを見ると、“もういいでしょ”と言わんばかりに階段を上っていた。
帝王さんが健康体なのはよかったけど…この量で返り血って、一体なにをしてきたんだろう…。
うわさに聞く“一番危険な暴走族”の片鱗を見た気がして、ハンカチが重く感じる。
私、スパイだってバレたらどうなるんだろ。
そう考えるとぞくっとしたけど、頭を振ってしゃがみなおした。
バレなきゃいい話だよ。
万が一バレたって、そのときはそのときで、なんとかすればいい。
今は、Night Empireの人たちと仲良くなることを考えよう!
そう決めて、私は手に持ったぬれぞうきんで、また床をこすり始めた。
「よしっ、1階終わり!」
反対側の行き当たりまで水拭きを終えて、私は立ち上がった。
ずっとしゃがんでたから、ちょっと腰が痛いかも。
水を入れたバケツに汚れたぞうきんを入れて、ぐーっと伸びをすると、固まった体が少しほぐれた。
ポケットに入れていたスマホを取り出せば、画面に18:42と表示されているのが目に入る。
「わっ、もうこんな時間!?」
早く家に帰って、晩ご飯を作らなきゃ!
私はバケツを持って、Night Empireの人に教えてもらった、お城の裏手にある水道に急いで向かった。
薄茶色になった水を排水溝に捨てて、蛇口から出した水でバケツとぞうきんを洗いながら、ふと思う。
そういえば帝王さんって、晩ご飯はここで食べてるのかな?
料理は誰がしてるんだろう?
私、帝王さんの伴侶になっちゃったわけだし、ご飯作ってあげたほうがいいのかな?
ここから歩いて10分くらいのところにコンビニがあったし、食材を買ってきて、かんたんな料理をする時間はあるけど…。
「…Night Empireの人に聞いてみよう」
バケツとぞうきんを洗い終えた私は、水気を拭き取ってから、お城の玄関ホールに戻った。
「あの、すみません。帝王さんって晩ご飯はどうされてるんですか?」
「あ?知るか。帝王さまの身の回りのことは、騎士さましか知らねぇよ」
「うーん…それじゃあ、騎士くんと話せたりしますか?」
「僕がなんだって~?」
玄関ホールにひびいた高い声には、聞き覚えがある。
いつからお城にいたんだろう、と思いながら階段のほうを見ると、ふわふわの髪をゆらした騎士くんがにこにこと下りてきた。
「騎士くん、こんばんは。あの、帝王さんって晩ご飯はここで食べてるんでしょうか?」
「それを知ってどうするの?」
「私、帝王さまの妃にしてもらったわけですし、帰る前にご飯を作っていったほうがいいかな、と思いまして」
「あははっ、きみが?いいんじゃない?作る分には」
気持ちよく笑った騎士くんは、腰をかがめながらどこか冷たい目を私に向ける。
もしかして、美味しくないご飯を作ると思われてるのかな。
これでも愛奈のために腕をみがいたから、料理には自信があるんだけど。
「それじゃあ、今から用意してもいいですか?よければ、騎士くんの分も作りましょうか?」
「妃さまの手料理なんて、騎士の僕には食べられないよ。さっさと料理して、帰りな?」
「そうですか…分かりました。それじゃあ、食材を買いに行ってきますね」
前から思っていたけど、Night Empireって身分の差に厳しいみたい。
私は騎士くんに笑顔を向けて、コンビニへ行くことにした。
****
テーマパークの中にあるお城ではあっても、住めるくらいに設備が整っているのが、ここのすごいところ。
もしかしたら、Night Empireの人たちが改築したのかもしれないけど、今はキッチンまで作ってくれてありがとうという気持ち。
コンビニへひとっ走りした私は、お城のキッチンでパパッとチャーハンを作って、帝王さんのお部屋がある階まで階段を上ってきた。
初日の記憶を頼りに歩いて、重厚な両開きの扉をノックする。
「すみません、妃にしてもらった鉄谷です。帝王さんのご飯を作ってきたのですが、入ってもいいですか?」
大きめの声を出して少し待つと、中から扉が開けられた。
現れたのは、今日、帝王さんと一緒に帰ってきた真面目そうな雰囲気の人。
髪をセンター分けにしたその人は、私が持っているチャーハンを見ると、無表情で道を空けてくれる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
ぺこっと頭を下げて中に入ると、ローテーブルの両サイドに置かれたソファーに騎士くんが座っていた。
帝王さんはテーブルの奥の、1人用ソファーにほおづえをついて座っている。
「帝王さん、晩ご飯に、と思ってチャーハンを作りました。よかったら食べてください」
「…」
帝王さんのとなりに行ってしゃがみ、にこっと笑いかけると、帝王さんは、じぃっとチャーハンを見つめた。
どこか、一点を見つめているような。
どこを見てるんだろう、と思ってチャーハンに視線を移すと、帝王さんの手が伸びてきて。
お皿をひっくり返すように、下から手の甲をぶつけられた。
「わっ」
私の手から離れてしまったお皿が、宙でひっくり返って、ぱらぱらっとチャーハンが床に落ちていく。
ガシャンッ、と最後にお皿が落ちた音がひびくと、私はぽかんとしたまま固まってしまった。
「ぷっ」
「早く、片付けて」
笑い声をもらしたのは騎士くんで、気だるげにしゃべったのが帝王さんで。
視線を上げて、帝王さんと目が合うと、私は、へなっと苦笑いする。
「分かりました」
どうやら帝王さんは、わがままな人みたいだ。