___人間の認知能力は凄まじい。「ハートイーター」を認知したその瞬間から有り得なかったはずの未来へと歯車が動き出す。それが嫌でも分かってしまい、一時間前まで微塵も縁を感じなかった死への恐怖が背筋を凍らせた。

 「ああ、駄目だ。間に合わなかったのか。」
 突如、目の前でポウッと灯る蝋燭(ろうそく)の火。四つん這いになる徹と結城の顔を照らしながらシルクハットを被った男性が困ったように呟く。
 「は…あ…?」
 思わず声が漏れる。この状況で立っており、光源を手にしていれば無論ハートイーターたちから丸見えである。
 「し…死にますよ、お兄さん!」
 出来る限り小さな声で話しかける結城に男性は「うん、大丈夫だよ俺は。」と返す。そしてそのまま、ハートイーターたちの方へ顔を向けると蝋燭の火を構え、息を吹きかけた。その瞬間、大きな火柱が一周ハートイーターたちを囲む。
 「な、何だよこれ!」
 「熱い熱い熱い!」
 形勢逆転、戸惑い出す彼らを見て唖然とする二人。徹の隣にいたあの女性は気づけば消えていた。
 (先に逃げたのかな。)
 凛とした顔を思い出し、どことなく何があってもあの人なら大丈夫な気がした。視線を戻すと、シルクハットの男性は徹と結城の方へ右手をかざした。
 「さあ、今のうちに逃げろ!」
 その右手が指し示すのは先程まで明らかに無かったはずの扉。この人が出したのだろうか、もう訳が分からない。思うより先に死の恐怖が揺らいだ思考が自然と二人の身体を扉へ飛び込ませた。無我夢中で前のめりに倒れこめばそこは何の変哲もない外の世界。
 「…うわ。」
 振り向いて初めて自分たちが何処にいるのか理解する。高層ビルの屋上である。目の前には数々のビル群が作り出す夜景が広がっている。
 先ほどまで確かにいなかった場所に、まるで転送されてきたみたいに二人は倒れこんでいた。
 「何が起きてんだ…全く。」
 「夢だろ夢。全部明日には元通りだろ。」
 そのまま横になり、額に手を当てる結城の隣で徹はひどく冷静だ。非現実を信じない者はこうも冷静でいられるのだろうか。
 時計は夜十二時を回っていた。ボーンボーンという、シンデレラの鐘の音のような音が聴こえてくる。
 ___そして気づけば二人は眠ってしまっていたようだ。目を開けると太陽がまぶしい。
 「うわ、今何時!?」
 「朝の七時…ま、一旦家帰って二限からだな。」
 「めんどいからそのまま行こうぜ。別に…筆記用具とルーズリーフあれば大丈夫だろ。」
 ビルの階段を伝って地上まで下りる。いつも通りの賑わいと人の多さ。昨日の一夜が夢であった仮説を肯定されている気がして少しホッとする。大学についても時間が中途半端すぎて一限がある学生すら来ていない。コンビニで買った袋を振り回しながら一足先に教室へ入った。
 「何か…足痛い、色々あり過ぎて。」
 「俺も。あ、やばい飲み物買うの忘れた。」
 おにぎりを食べる徹の横で結城は座ったばかりだというのに立ち上がり、一番近くの自動販売機へ向かった。校内はシーンとしており、人気が全くない。ガコンッと音を立てて出てきたコーラを手に取ると、ふと、自動販売機の隣の教室のドアが半開きになっているのが目に留まった。
 (何だ?)
 覗かなければ良かった。自動販売機の音でそいつはこちらを向いており、そっと覗いた結城と目が合ってしまった。フードこそないものの顔には見覚えのある紋章付きの紙を張り付けている。
 「うわあああああっ!」
 奥には横たわる知らない男子学生。駄目だ、こいつ人間じゃないと本能が察知する。結城は持っていたコーラを咄嗟に投げつけた。そしてドアを閉めて徹のいた教室までダッシュする。
 「徹!すぐに荷物まとめろ!あれは夢じゃなかったんだ!」
 「は、え、何だよ結城?」
 「ハートイーターがいたんだ、この階に!きっと俺を追ってきてる!」
 焦る結城の後ろで「追いついたぞ、人間。」と冷たい声がする。徹と並び、その姿をしかと見る。武器は持っていないようだが、逃げるにも出入口は塞がれており、この教室は四階。こんな場所から飛び降りたら間違いなく骨折してしまう。
 「まさかこんな人気のない時間帯に見られることになるとはな、朝食の時間がパアだ。」
 「…結城、こいつって人間じゃないんだよな。」
 「ま、まあ…多分?」
 「なら…戦って万が一殺しても罪にはならない…か?」
 「正気かよ…。」
 ここまで来たら戦うしかない。こうも距離が近いと作戦も立てられそうになく、いちかばちかこちらが死なないように動くしかなかった。
 「絶対に…捕まるなよ!」
 「もちろんだ。」
 どちらから喰うか、品定めをしているハートイーターを目の前に二人は背を向けて教室内で距離を取った。逃げ腰に見えたのか、ハートイーターはすぐに距離を詰めようと走ってくる。狙いは結城のようだ。それを察知した結城は教室の前の方へ走り、ごみ箱をハートイーターに投げつけた。中身は回収された後だったが、それはハートイーターの上半身に直撃し、一瞬怯んだ様子が見える。
 「うおりゃああ!」
 その後ろから徹が隙をついて教科書をまとめたものの角でハートイーターの頭を攻撃した。驚いた顔をしたハートイーターはその場でよろめく。しかし、まだどうにか持ちこたえて起き上がるハートイーター。結城は思わずその腹めがけてタックルした。そのまま、ハートイーターを窓辺の方に押すが、まだ距離が遠い。結城はハートイーターに掴まれ、その腕がメキメキと音を立てる。
 「がああああああっ!」
 そのまま腕に噛みつかれ、これまで経験したことのない痛みが全身を駆け巡った。
 「結城!てめえええ!」
 徹が再度ハートイーターを殴りつけ、結城からハートイーターをどうにか剥がす。噛みつかれたところは血が流れ、結城は腕を押さえて一旦身を引いた。
 「大丈夫…徹、あいつのこと…窓から落とせると思うか。」
 「やるしかない。結城、ごみ箱持てるか。俺が合図する、そしたらそれを持ってもう一度突進してほしい。」
 「分かった。」
 結城は言われるがままに先程ぶつけて転がったゴミ箱を被るように力の入りづらい両手で前に構え、徹の合図を待った。
 「おい、ハートイーター!」
 そう叫び、ハートイーターの意識を向けたと同時に徹は教科書を投げる。それを避けようとしたハートイーターめがけ、その後ろからカッターナイフとはさみを取り出し、投げつけた。不意を突かれたそれはさっくりとハートイーターの腕に刺さり、ハートイーターは後ろに倒れそうになる。痛点はあるようだ。
 「結城!」
 その声に結城は前も見えないまま、ゴミ箱を盾にして全体重をかけて一直線に突進した。手ごたえあり。そのまま、窓まで押し切るとバリンという音と共に結城の体重も宙に浮く感じがした。
 「危ねっ!」
 間一髪、徹が結城の身体を掴み落下を阻止する。ハートイーターはそのまま下へ落下していった。ボスンッと鈍い音が響き、二人は気が抜けて座り込んだ。死体など見たくなく、窓の下は見れなかった。
 「あ…ああ、やっちまったな。」
 「大丈夫だよな、誰も見てないよな…。」
 人間でないにしろ、人型のものを人が死ぬかもしれない高さから落としてしまった。死なずとも大怪我の可能性もあり得る。少しの罪悪感と仕方なかったという気持ちと昨晩の出来事が夢でなかったことの恐怖の再自覚で二人は瞬き一つせずその場から動けなかった。