シノミヤ楽器店のひととき

 「小野上(おのうえ)、進路希望調査出してないの、お前だけだぞ!明日必ず持って来いよ!!」
 
担任の先生が大きな声で言う。わざわざみんなに聞こえるように言わなくてもいいのに。

小さな声で返事をすると、今度は友達が

「えー、まだ優波(ゆうは)出してなかったのー?てか、今からカラオケ行くけど優波も来る?」

と私に声をかける。気分ではなかったので、お誘いを丁寧に断ってから教室を後にした。



悩みがあると、何となくどこかに行きたくなる。見慣れない景色や街並みを見るのは、いつも新しい発見があって楽しいものだ。

とはいっても、高校生の私が行ける範囲は限られるのだけれど。

バスか電車の一日乗車券を買って、限られた範囲の中でもいろいろな場所を訪れるのが、私の唯一の趣味みたいなものだ。



近頃今後の進路について迷っていた私は、特に何も考えずに乗車券を買って、電車に乗り込んだ。

学校で借りてきた小説を片手に、車窓から見える景色を眺めたりする。

話のきりの良いところで、そのままふらっと電車を降りて街を散策するのだ。

今日降り立ったところは、幼い頃に何度か来たことのある商店街。

ずいぶん変わったなあ、としみじみ感じながらゆっくり歩く。

昔はもっと活気があった気がするけれど、今ではシャッターが目立っていて人通りも少なく、閑散としていた。

ふと、通りの脇道に目を向ける。

少し大通りから外れてみよう、そう思って足を運ぶと、その奥に、昭和を思わせるレトロな外観の楽器店が姿を現した。

私は、吸い寄せられるように店の中へ踏み出した。
店内は、楽譜や楽器がたくさん並んでいて、不思議と居心地が良かった。

様々な種類の楽器を見てまわると、店の奥の片隅に、ガラスのショーケースがあるのに気が付いた。おそるおそる近づいてみると、そこには何とも美しい曲線を持った、優美なヴァイオリンが飾られていたのだ。

「綺麗…」

思わずそう呟く。こんなにもひとつの楽器を食い入るように見つめたのは初めてかもしれない。そのままヴァイオリンから目をそらせずにいると、

「ヴァイオリン、弾いてみますか?」

と後ろから声をかけられた。びっくりして振り返ると、このお店の店員さんらしい、ひとりの男性が優しい笑顔でこちらを見ていたのだ。

自然な色をした茶髪に、色素の薄いブラウンの瞳。男性にしては、珍しい、透き通るような白い肌をしていた。

「えっと、いや…弾いたことないので…」

やっとの思いでそう口にすると、店員さんは

「そうなんですね、じゃあ僕が少し弾き方を教えましょうか」

と言って、店のカウンターの裏から鍵を持ってきて、ショーケースを開け始めたのだ。

しどろもどろになっている私の横で、店員さんはヴァイオリンを丁寧に取り出し、チューニングし始めた。

「こうやって肩とあごの間に軽く置いて構えて、弦と平行になるように弓を動かしてみてください。力は入れずに軽ーく動かすだけで、普通に音が出るんですよ。はい、これ構えてみて」

言われるがままにヴァイオリンを構えて、弓を動かしてみると、

「ギィッ…」

と不快な音がした。

「ぷはっっ」

店員さんが笑う。やってしまった…。恥ずかしすぎて、心の中でどたばたのたうち回っていると、

「ごめんなさい…。僕も初めてヴァイオリンを触ったとき、汚い音で泣き出したことあるなぁって。久しぶりに思い出しました。ちょっと貸してください、僕がもう一回お手本を見せるので」

そう言って店員さんはヴァイオリンを受け取り、スッと構えた。

それだけで、空気がぱっと変わった気がした。

ヴァイオリンの心地よく美しい旋律が、私の中にすぅっと入って浸透していく。初めての感覚にうっとりしていると、店員さんは弾くのを止めて、私にヴァイオリンを持たせた。

「はい、もっかいチャレンジしましょう」

私はさっきの感覚を思い出して、もう一度弓を動かした。

「スーーーッ」

今度は綺麗な音が出た気がする。店員さんの顔を見上げると、にっこり笑って

「すごい。初めて弾いたとは思えないくらい綺麗な音だよ」

と褒めてくれた。

「またここに来てくれたらもっと教えてあげられるんだけどね」

店員さんが言う。

またここに来れば、もっとこのヴァイオリンを弾けるの―――?

なんとも魅力的な提案で、私は思わず言った。

「じゃあ、またここに来るので、ヴァイオリン教えてください!」

「うん、いいよ。いつでも教えてあげる」

やったあ、嬉しくて思わず口角が上がってしまう。店員さんは、

「そんなに喜んでもらえるのは嬉しいなあ。いろいろ話したいから、ちょっとお茶にしましょうか」

そう言って、私をカウンターに案内した。

 店員さんは、おしゃれなティーカップに紅茶をいれて、持ってきてくれた。

「自己紹介がまだでしたね。僕はこの店の店主の孫で、篠宮奏音(しのみやかなと)といいます。お嬢さんは?」

「あっえっと…隣町に住んでいる、高校三年生の小野上優波です。この店には、そこら辺を散歩してたときにたまたま見つけて、ちょっと気になったので…」

「そうだったんだ。うちはなかなか若い子が来ることないから珍しくて。いらっしゃるお客様はほとんど高齢の常連さんなんだ。うちをみつけてくれてありがとう」

「いえ、こちらこそヴァイオリンを触らせてもらえてうれしかったです。ありがとうございます」

奏音さんはすごく朗らかな空気をまとっているみたいで、人見知りの私でも楽しくおしゃべりできるから不思議だ。

「このヴァイオリンはね、何十年も前に大活躍していた、有名なヴァイオリニストが使っていたものなんだ」

「え⁉そんな貴重なものを、私が触って大丈夫だったんですか…?」

「そんなに気にしなくても大丈夫だよ。それに、あのヴァイオリンも久しぶりに誰かに弾いてもらえて嬉しかったんじゃないかな。まあ、僕は昔から結構アレで遊んでるんだけどね。弦破壊したこともあるし」

「貴重なヴァイオリンを、そんな乱雑に…?」

「まあまあ、あんまり気にしないで。その後めちゃくちゃおじいちゃんに怒られたのは痛かったけど」

奏音さんは見かけによらず、昔は結構やんちゃだったみたいだ。

「おじいちゃんは昔、ヴァイオリンを作ったり、いろんな楽器を修理したりするための修行でヨーロッパに行っててね、そこでそのヴァイオリニストと仲良くなったらしいんだ。それで、一人前の楽器師になって、そのヴァイオリニストの娘と結婚して、日本に戻ってきたんだ」

「奏音さんのおじいちゃん、すごい人だったんですね」

「うん。僕もおじいちゃんのことすごく尊敬してるんだ。頑固で怒ると怖いけどね。そういうわけで、僕のお父さんはハーフ、僕はクオーターなんだ」

「なるほど…」

奏音さんが他の人に比べて全体的に少し色素が薄く見えるのは、クオーターだからだったんだ。

「じゃあ、その髪の色も、地毛なんですか?」

「もちろん。お父さんはもっと金髪っぽいかんじだけど、僕はこれくらいの落ち着いた茶髪でよかったよ。お父さんはそのせいで小さい頃いじめられてたみたいだし。ガイジンって。僕はそんなことなかったけどね」

「お父さんは、今何をされてらっしゃるんですか?」

「世界中でヴァイオリンを演奏しまくってるんじゃないかなー、お母さんと一緒に。よくわかんないけど」

「あんまり会ってないみたいですね…?」

「うん。会うのは何年かに一回だね。だから僕はがっつりおじいちゃんっ子で育った。名前もおじいちゃんがつけたしね。名前が奏でる音だし、本当は音楽家になってほしかったのかもしれないけど、僕のあこがれはおじいちゃんみたいな楽器師だから」

「おじいちゃん、大好きなんですね。ところで、そのおじいちゃんは今どこに?」

「ああ、毎週水曜日は通院の日だから僕が店番。木曜が店休日で、その他は大体二人で店にいるかな。そうだ、レッスンの日はいつにしようか」

「じゃあ、毎週水曜日に、伺ってもいいですか?」

何となく、奏音さんのおじいちゃんにレッスンを見られるのは気まずい気がして、私はそう答えた。

「うん、いいよ。お待ちしてます」

「ありがとうございます!あ、そろそろ日も暮れてきたので、おいとましますね」

「ほんとだ、もうこんな時間。駅まで送るよ」

「いえ、そこまでしてもらうわけには…」

「だいぶ暗くなってきたし、遠慮しないで送らせて。もう店も閉める時間だから」

「わかりました。じゃあ、お言葉に甘えさせていただきます…」

奏音さんはすごく優しい人で、一緒にいて居心地が良い。しばらく談笑しながら駅に向かって歩いていると、あっという間に駅に着いた。

「すぐ電車来るみたいなので、ここで大丈夫です。ありがとうございました」

「うん、こちらこそすごく楽しかった。また来週、楽しみにしてるね」

「はい!私も楽しみです!」

「ふふ、じゃあまたね、気を付けて」

しばらく電車に揺られて、私は家についた。

「すごく楽しかったなあ…」

小さく呟く。あ、連絡先聞いておけばよかったな。今度聞いてみよう。今から来週の水曜日が、待ち遠しくて仕方なかった。
 今日は待ちに待った水曜日。朝からそわそわして、友達からも変な目を向けられてしまったけど、なんとか一日学校を乗り切った。

駅の改札を出て、そのまま商店街を歩く。少し歩いたところで脇道にそれて、やっと「シノミヤ楽器店」の看板が見えてきた。

「こんにちは…」

店のドアを開けると、ピアノの美しい旋律が耳を撫でた。

しかし、ピアノの音はそこで止まって、奏音さんがこちらを振り向く。

「あ、優波ちゃん、こんにちは。学校お疲れ様。待ってたよ」

ふわっとした笑顔で奏音さんが迎えてくれた。

「奏音さん、ピアノも弾けるんですね…ほんのちょっとしか聞こえなかったけど、すごく上手でびっくりしました」

「ふふ、ありがとう。ヴァイオリンとピアノ以外にも、中高で吹奏楽やってたから、サックスとフルート、あとはパーカッションをいくつかと、ああ、あと最近は趣味でカリンバもやってるかな」

「すごい、多彩だぁ…」

「まあ、どれも中途半端でプロには程遠いんだけどね。昔から楽器とか音楽が好きだから、出来るだけいろいろやってみようって頑張ってた。高校のときは合唱部も掛け持ちしてたなあ…」

私は部活もしていないし、好きなことだって見つけられない。いろいろなことに全力で取り組める奏音さんが、少しうらやましくなった。

「自分でいろいろ決めて頑張れるってすごいことだと思います。私は進路もろくに決められなくて…」

「進路かー、それは大変だね。でも、焦っても空回りしちゃうなんてことはありがちだから、自分のペースでちょっとずつ、が大事だよ」

「そっか…そう言われるとちょっと気持ち軽くなりました。ありがとうございます」

「いえいえ、僕でよければいつでも相談乗るよ。そうだ、連絡先聞いてもいい?」

「あ、それ私も聞こうと思ってました」

「そっか、よかった。じゃあ、そろそろレッスン始めますか」

「はい!よろしくお願いします!」

初めてのレッスンは、綺麗な音を出すための練習だった。地道な特訓だけど、結構楽しい。私意外と、音楽向いてるのかも?もっと早くヴァイオリンに出会いたかったなあ。

そんなことを考えながら、奏音さんに手取り足取りヴァイオリンを教わっていると、あっという間にレッスンが終わった。

「優波ちゃん、上達が速いね。この調子なら、次には簡単なのを一曲くらい、弾き上げられそう」

「本当ですか⁈楽しみです」

「そうだね。じゃあ、お茶にしようか」

奏音さんは慣れた手つきで、紅茶を二人分、ティーカップに注いでいく。

「この前から思ってたんですけど、この紅茶、すごく香りが良くて美味しいですね」

「でしょ?この紅茶、おじいちゃんのこだわりなんだ。スリランカ産の茶葉を使っててね」

「へぇ、スリランカかぁ…」

「うん。昔おじいちゃんにおつかいを頼まれたときにね、いつものオレンジ色のパッケージのこれを買ってくるんだよって念を押されて近所のお茶屋さんに買いに行ったんだ。でも、すごく似たパッケージのチャイティーを間違えて買ってきちゃって、気づかずにそれを飲んだおじいちゃんがお茶を吹き出しちゃったんだよね。香りで気づけたはずなのにたまたま鼻炎だったみたいで。すごくおもしろくて笑っちゃったんだけど、おじいちゃん頭から湯気出そうなくらいカンカンに怒ってて。やばい、と思ってすぐ店から飛び出してにげちゃった。まあ、すぐに捕まってお説教食らったんだけど」

「幼い頃の奏音さん、本当にやんちゃですね。ちょっと会ってみたかった」

「えー、どこにでもいるただのがきんちょだったよー」

今はこんなに大人っぽい奏音さんががきんちょかぁ、となおさら見たくなってしまった。

「そういえば、今は何歳なんですか?」

「今は20歳だよ。来月で21歳になるけど」

「そうなんですね!誕生日いつですか?」

「6月10日だよ」

近くにかかっていたカレンダーを見てみる。ちょうど水曜日だ。

「じゃあ、お祝いにケーキ持ってきますね」

「ほんと?甘いもの大好物だから嬉しいよ。楽しみにしてる」

「優波ちゃんの誕生日は?」

「私は9月13日で18歳です」

「そっか、成人だね」

「はい、全然成人する実感はないですけど…」

ふと時計を見てみると、すでに6時を過ぎていることに気が付いた。

「もう日が暮れるので、そろそろ帰りますね」

「本当だ、もうこんな時間。優波ちゃんといると、時間が経つのが速いなぁ。すぐ店閉めるから、ちょっと待っててね。送るから」

「わざわざありがとうございます。外に出ますね」

奏音さんは店の鍵を閉めると、この前と同じように、私を駅まで送ってくれた。

次のレッスンは、曲が弾けるのかぁ、と思うと、またすごく楽しみになった。

電車を降りた後も、私は軽い足取りのまま、家路についた。







 それからシノミヤ楽器店に何度か通った私は今、熱心にケーキ作りをしている。

理由はもちろん、明日21歳の誕生日を迎える奏音さんにプレゼントするためだ。何度かケーキは作ったことがあるけれど、久しぶりなので失敗しないか心配だ。

いつも奏音さんにお世話になってばかりで何も返せていないので、今回はいつものお礼も兼ねた絶好のチャンスだ。

生クリームを泡立たせながら、私はケーキを見て喜ぶ奏音さんの優しい笑顔を思い浮かべた。


無事にケーキも完成した当日、私はシノミヤ楽器店を訪れた。

扉を開けてすぐ、

「奏音さん、お誕生日おめでとうございます!これ、お祝いのケーキです!」

そう言ってケーキを差し出す。ぱっと顔を綻ばせた奏音さんは、

「本当にケーキ持ってきてくれたの⁈ありがとう!早速開けてもいい⁇」

そう言ってケーキを取り出した。

「え、もしかしてこれ手作り?めっちゃすごい、お店のみたい‼」

いつになく奏音さんが子どもみたいにはしゃいでいる。

そんなに喜んでくれるなら、毎回何かしらの手作りスイーツを、お礼として持って行ってもいいかもしれない。そう考えた私は、

「あの、よければ次からは毎回、スイーツ持ってきましょうか?私の手作りでよかったらですけど」

と奏音さんに提案した。ケーキを頬張っていた奏音さんは、目を輝かせながらも、

「え、いいの?嬉しい!いやでも、毎回はさすがに優波ちゃんの負担になっちゃうよ」

と困った顔をした。それでもお礼のチャンスが欲しかった私は、

「いえ、全然大丈夫です!私、奏音さんにお世話になってばかりで何もお返しできてなかったので、それくらいさせてください。お菓子作りは結構得意なんです!」

そう言って半ば無理やり、毎回手作りスイーツ持参の約束を取り付けた。


ケーキを食べ終わって後片付けをしていたとき、キィッと音を立てて店の扉が開いた。

あれ、と思い店の入り口に目をやると、そこには大きな荷物を抱えた、品の良い老紳士が立っていたのだ。

「こんにちは。おや、奏音くんじゃないか。久しぶりだね。義三(よしぞう)さんはいるかい?チェロの修理を頼みたくてね」

「ああ、松島さん。本当にお久しぶりですね。祖父は今店にはいないんですよ。後で渡すので、お預かりしますね」

店に来た方は、昔からの常連さんみたいだ。

「そうかい、義三さんはいないのか…残念だな。久しぶりに会えると思ったんだけど」

「申し訳ないです。水曜は通院の日なので、僕が店番なんですよ。それ以外の日は祖父もいるので、受け取りの日に会えるといいですね」

「そうか、通院ねえ…私たちもすっかり年を取ってしまったものだよ。家内もね、この間軽く転んだだけで足を骨折してしまってね」

「そうですか…あんなに元気でいらしたのに…」

「そりゃ奏音くんもこんなに立派になってしまうよなあ、昔はよく店の中を走り回って義三さんに怒られてばかりだったのに」

「はは、あの頃の話は…本当にお恥ずかしい限りです」

「そういえば、そこのお嬢さんは誰かな?奏音くんの恋人かい?」

松島さんは私に向かってそういった。そんな、とんでもない、と間違いを否定しようとあわあわしていると、

「いえ、彼女は最近週一回ヴァイオリンを習いに来てくれる常連さんですよ」

と奏音さんがさらりと答えた。

「へぇ、この店にもまだ若い子が来てるんだね。それはよかった。そうだ、これなんだけど」

そう言って、松島さんは財布から美術館のチケットを二枚、取り出した。

「本当は家内と二人で行く予定だったんだけどね、期間内には足が治りそうもないから、これ、もらってくれるかい?妻が楽しみにしていたものだから、私が一人で行く気にもならなくてね」

「そうですか。折角楽しみにされていたのに、残念ですね…。では、ありがたく受け取らせていただきます。奥さんの分まで、楽しんできますよ」

「そうかい、それはよかったよ。もう処分しようと思っていたところだったからね。それじゃあ、修理が終わるころにまた来るよ」

「はい、修理が終わったら、ご連絡させていただきますね。またいつでもお待ちしております」

「ありがとう、義三さんによろしく伝えてくれ」

松島さんはそう言うと、店を後にした。


「長いお付き合いの常連さんなんですね」

「うん。40年くらい前から来ていただいてるみたい。お父さんが産まれたころも知ってる人だよ。いまだに来ていただけるなんて、嬉しいなあ。最近来てくれるようになった優波ちゃんもそうだけど、やっぱり久しぶりの常連さんに会えると嬉しいね」

奏音さんはそう言って、手元のチケットに目を落とした。

「優波ちゃんは、この画家知ってる?」

チケットに描かれていたのは、絵についてあまり詳しくない私でも知っている、有名な画家の絵画だった。

「はい、教科書にも載るくらい有名なので知ってますよ。私は結構、この画家さんの画風好きです」

「そっか、じゃあ一緒に行こう?」

思わぬ提案に驚いた私は、

「え、いいんですか?誰か他に、おじいちゃんとか、彼女さんとか、行く人いないんですか?」

と答えてしまった。奏音さんはちょっと困ったような顔をして、

「おじいちゃんは楽器と音楽以外に興味ないし、僕は今お付き合いしてる人もいないから…。優波ちゃんがよければ一緒に行きたいな」

ともう一度私を誘ってくれた。

「そういうことなら、私もぜひ一緒に行きたいです!楽しみですね」

「うん。じゃあ日程は追々決めようか。今日はもう遅いし、レッスンはなしにしよう」

「そうですね。今日も楽しかったです。ありがとうございました」



家に帰って、美術館のことを考える。初めて、お店の外で奏音さんに会えるんだ。どうしよう、すごく楽しみ…。何を着ていこうかな…?

いろいろ考えて、今日の会話を思い出す。

奏音さん、彼女いないんだ…

あのとき、少しほっとしてしまった自分に驚いた。

そっか、私、奏音さんのこと好きなんだ。

奏音さんに対する自分の感情に初めて気づいてしまい、次からどんな顔をして会えばいいのかわからなくなってしまった。











 もうすっかりシノミヤ楽器店に行くのも慣れてしまい、簡単な曲もいくつか弾けるようになってきた。

奏音さんのお誕生日以降、自分自身の奏音さんへの好意に気づいてしまってからは、普段通りに接することができているか不安だけれど、どうにか上手くやれていると思う。

そんなわけで、今日は初めての奏音さんとのお出かけだ。

デート、と言ってもいいのかもしれないけれど、恥ずかしいやらおこがましいやらで、自分にこれはただの「お出かけ」だ、と言い聞かせる。

昨晩、何を着ていこうか、メイクは、髪型は、と散々シミュレーションして決めたくせに、いざ当日になってみると、本当にこれでいいの?と不安になって、準備に手間取ってしまった。

乗車予定の電車が出発するまで、残り15分を切っている。朝ごはんを胃に流し込むように食べて、急いで家を出た。

履き慣れないちょっとおしゃれな靴で、駅まで走る。ああ、絶対靴擦れするなぁ、と心の中で後悔しながらも走り続け、駅についた。

崩れた髪を整えながら、駅のコンビニで絆創膏を買ってホームに向かうと、そこにはいるはずのない、奏音さんさんの姿があった。

一瞬人違いかな、と思ったけど私が奏音さんを見間違えるわけがない。でも、待ち合わせは9時にシノミヤ楽器店のはずだった。

まだ7時58分。大遅刻したわけでもないし、とあれこれ考えていると、

「あ、優波ちゃん、おはよう」

と奏音さんが私に気づき、こちらに向かってきた。

「おはようございます!…何でここに?」

おそるおそる聞くと、

「特に深い意味はないんだけどね。わざわざうちまで来てもらうのも二度手間になっちゃうし、なんかなぁ、て思って来ちゃった」

奏音さんはけろっとした顔でそう答えた。

「連絡してくれたらよかったのに…私が別の時間の電車に乗ってたらどうしたんですか⁈」

と反論する。

「確かに…連絡先交換した意味ないじゃん、何やってんだろ、僕…。でもこの電車一時間に一本しかないし、結局会えたから大丈夫でしょ?あ、ちょうど電車来たから乗ろっか」

車内は、日曜なだけあってかなり空いていた。

私が座席の隅に座ると、奏音さんもそのすぐ隣について、腰を下ろした。

…近い。

いつもは大抵小さな机ひとつ分の距離があるのに、今にも肩が触れそうなくらいまで近くに奏音さんがいる。こんなに近い距離は、初めてヴァイオリンの構え方を教えてもらったとき以来だ。あのときはまだ奏音さんに好意を持っていなかったから大丈夫だったけど、今は違う。せめて今だけでも、あの頃の気持ちに戻りたい。

ちらりと横目で奏音さんを見ると、電車に揺られて気持ちよくなったのか、少しうとうとしていた。

かわいい。

三つ年上ではあるけれど、眠たそうな奏音さんは幼い子どもみたいに見えて、ちょっと抱きしめたくなるくらいにはかわいかった。

そんな奏音さんを見ていると、なんだか私も眠たくなってきて、そっと目を閉じ、眠りについた。


とんとん、と優しく肩をたたく感触で目が覚める。はっと隣を見ると、くすっと笑った奏音さんが

「おはよう。よく眠れた?」

と私を起こしてくれたのだ。

「あ、はい…。日曜にしては早起きだったので、ちょっと眠くなっちゃいました。奏音さんにつられちゃったのもあるけど」

「ふふ、もしかして寝顔見られちゃった?僕の方が寝落ち早かったか。そろそろ到着だから、降りる準備しよう」

そうして電車を降りた後、駅のすぐ近くにあった美術館に入館した。

何ともいえない美術館の空気にのまれた私たちは、黙々と絵画や芸術品たちを鑑賞し続けた。

時々、奏音さんが絵画を指さして

「これ、すごいね」

と口パクしていたり、それにコクリとうなずき返したりするだけで会話はなかったけど、並んで同じものを鑑賞できるのが楽しくて、あっという間に時間は過ぎていった。


美術館をでると、奏音さんは

「はぁーっ、疲れたけど楽しかった。お腹空いたし、何か食べに行こうか」

と言って大きなあくびをした。

「奏音さん、最近お疲れ様ですか?」

気になったことを聞いてみる。

「いや、昨日久しぶりに力仕事したのに加えてちょっと寝不足だったからね。気にするほどでもないよ、ありがとう。ところで、優波ちゃんは何食べたい?」

大したことはなさそうなので、ひとまず安心した。

「うーん、ここら辺に何があるかもよく知らないので、奏音さんチョイスでお願いしてもいいですか?」

「わかった。たしか、この近くに評判の良い喫茶店があったはずだから、そこに行こうか」

と、お目当ての喫茶店に向かった。


「メニューいあっぱいあるね。何にしようかなー、優波ちゃんも好きなのいっぱい頼んでいいよ。今日は僕のおごりだから」

「いや、申し訳ないです…」

「高校生に払わせるなんてできないよ。それに優波ちゃんにはいつも美味しいスイーツもらってるし、おかえしさせて?」

「じゃあ、お言葉に甘えて…」

私はサンドイッチとクリームソーダ、奏音さんはナポリタンとブラックコーヒーを注文した。

そのまま楽しく談笑しながら刻々と時間は過ぎていき、いつもの駅で、このお出かけはお開きになった。



 奏音さんと出会ってから四か月ほどが経ち、音楽や美術などの芸術に興味を持った私は、いろいろ調べて考えて、国際文化を学ぶことのできる、近くの大学を受験しようと決めた。

そのためには、奏音さんとのレッスンも受験が終わるまで来ることができないと伝えなければ。今度のレッスンで話をしよう。

そう思っていたのだけれど。

奏音さんと会えるこの時間が、なくなってしまう。もっとこの時間が長く続いてほしい。

と甘えが出てしまって、なかなか話ができなかった。

そのまま日は過ぎてしまい、9月12日。私の誕生日の前日になってしまった。

今日は水曜日なので、シノミヤ楽器店に向かう。昨日作ったお菓子は、甘くてほろっと口の中で溶けるような、スノーボールクッキーだ。

「こんにちはー」

いつも通りに店に入る。

「いらっしゃい。待ってたよ」

いつも通りの、ふわっとした優しい笑顔で奏音さんが迎えてくれた。

「これ、今日はスノーボールクッキーです」

「いつもありがとう。後で紅茶といただくね」

レッスンが始まる。今日は、「G線上のアリア」の仕上げだ。

心地良い低音が店内に響く。

初めて弾いたときに比べると、音色も構えも自然で美しいものになっていて、レベルアップするたびに奏音さんはたくさん褒めてくれるのだ。

でも、そんな日々ももうすぐ終わり。

G線上のアリアをつまずかずに弾けるまで、いつもよりちょっと長めにレッスンしてもらった。

レッスン後のお茶タイムが始まった。

「ねえ、明日学校が終わった後、時間ある?おいしいケーキ屋さん知ってるんだけど、よかったらいっしょにお誕生日お祝いしたいなって思って」

「え、いいんですか?嬉しいです。ありがとうございます!

「いえいえ、僕もお祝いしてもらったから。5時半にここ待ち合わせでもいい?」

「はい、大丈夫です。楽しみにしてますね!」

その後もスイーツやケーキ屋さんの話で盛り上がりながら、明日、進路のことを話そう、そう決意して、私は店を後にした。

そして迎えた誕生日。そわそわしながらシノミヤ楽器店に向かい、奏音さんと一緒に商店街のケーキ屋さんに入った。

「ここのケーキ、どれも絶品だから。僕はこのショコラケーキが大好物なんだよねー」

「そうなんだ、じゃあ私も同じのがいいです!」

「そっか、じゃあこれふたつ頼もう」

しばらくして、ケーキを受け取り席に着くと、奏音さんが少し硬い表情になった。

「実はね、今日優波ちゃんに言わなきゃいけないことがあって」

奏音さんの表情から、少し嫌な予感がした。

「ヨーロッパに修行に行くことにしたんだ。だから三日後、日本を出る」

ヨーロッパ?修行?三日後?

呆然としている私の前で、奏音さんはさらに話を続ける。

「一か月くらい前、おじいちゃんにがんが見つかって。命に問題はないし、手術すればすぐに治るレベルだから大丈夫だったんだけど。でもそのとき、もしおじいちゃんに何かあったらシノミヤ楽器店はどうなるんだろう?って考えたんだ。僕はおじいちゃんみたいなすごい技術を、何も持ってない。でも、この店にはおじいちゃんの技術を必要として来店してきてくださるお客さんたちがたくさんいる。その人達のためになにかできるのは、おじいちゃんがいなくなったら僕しかいないんだ。だから、ヨーロッパでおじいちゃんと同等の技術を身に着けることができるまで、修行することにしたんだ」

奏音さんの気持ちはよくわかった。でも…

「何で、もっと早く、教えてくれなかったんですか…?」

お店のために、自分の目標にために旅立つ奏音さんを、応援しなきゃいけない。困らせちゃいけない。

でも、いくらこらえても涙を我慢することができなかった。

「ごめんね、泣かないで…」

奏音さんが困ってる。

「もうひとつ、聞いてほしいことがあるんだ」

奏音さんはそう言って、持っていたバッグからお店の鍵と、小さな箱を取り出した。

「何年かかるかわからないけど、出来るだけ早く戻ってくるから、優波ちゃんにこれを預かってほしいんだ」

私は混乱して、奏音さんを見つめる。

奏音さんは、箱からヴァイオリンを模した小さなモチーフのついた、ネックレスを取り出した。

私の背後にまわって、奏音さんがネックレスを私に着けてくれる。

「これ、オーダーメイドでお揃いなんだ」

奏音さんが自分の首元から、同じネックレスを見せた。

「一人前の楽器になって帰国して、優波ちゃんを迎えに行きたい。それまで、待っててくれないかな…?」

奏音さんまで泣きそうになっていた。

悲しいとか、寂しいとか、嬉しいとか、いろんな感情がごちゃまぜになって私を襲う。

しばらく時間をかけて泣き止んだ私も、奏音さんに進路を伝える。

「私、奏音さんに出会ってから今までと違う世界を見て、もっと学びたいと思えることに出会えたんです。だから、国際文化を学べる近くの大学を、受験するんです」

「そっか…やりたいことが見つかったんだね…よかった…」

奏音さんが少し笑顔を見せてくれた。

「だから、私も奏音さんのこと、ずっと応援します。だから…何年でも、待ち続けます…」

奏音さんは、声にならない声で

「ありがとう」

ととびきりの笑顔を見せてくれた。


この後の会話は、あまり覚えていない。なんだかふわふわしてしまって、頭が上手く働かなかった。

何で大事な報告をもっと早くしてくれなかったのか、という問いについては、

「21歳の僕が、成人前の優波ちゃんに手を出しちゃだめだから。報告の仕方が、これ以上思いつかなかった。ごめんね」

と返されてしまった。

盲点である。自分の愚かさと幼さを、同時に味わった気分になった。


そして、三日後。

ヨーロッパに旅立つ奏音さんを見送るため、私は空港に来ていた。

「お見送り、ありがとう。行ってきます」

そう言って、奏音さんは優しく、私にキスをしてくれた。

真っ赤になってしまった私は、

「早くいかないと、遅れちゃいますよ。ずっと待ってますから、早く行って戻ってきてください」

とあまり可愛くない対応をしてしまった。

ふふ、と笑って、奏音さんは搭乗口に向かっていった。

飛行機が空へ飛び立つ。

私の、かけがえのないシノミヤ楽器店のひとときは、奏音さんにもらったネックレスと鍵に、たくさんつまっているみたいだった。








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