「詳しいことはあいつらにも分からないし興味もないらしいが、親らしき人物があいつらを厄介な連中に売ったのは確かだ。数年間その連中の元で働かされた挙げ句、ニーナは売春婦として働かされブラッドとジャックは金持ちの屋敷に売られるようになった」
2つのコップの中の氷が水に溶けていく。
「ニーナはまだ幼いのに、身体を売るしかなかったんだ」
そう言うエリックさんの目は、どこか悲しそうだった。
「…そんなこと私に言っていいの?」
「あいつらは別にこのことを隠そうとはしていない。この組織の大抵の人間が知っている」
“ある女の所有物”――ジャックが言っていたのは、このことだったのかもしれない。
「この組織にいる連中は、そんな世の中の理不尽さから逃げてきた奴も少なくない。私はそんなやつら――ニーナも含めて全員を救いたい」
目の前にいるエリックさんを見ているはずなのに、どこか遠くの人を見ている感じがした。
「今日を自分の誕生日にしたいと言い出したのはニーナだ。自分が解放された日だから、と。だが避けられている。何故だか分からない。去年は一緒だったというのに」
「…だから私を呼んだわけね。ニーナちゃんにとっても大切な日なら、確かに避けるのには理由がありそうだわ」
何だかんだでニーナちゃん、エリックさんのこと嫌いではなさそうだし。
まぁこういうのはゴチャゴチャ考えるより本人に直接聞いた方が早いんじゃないかしら?
私は携帯を取り出し、連絡帳から【ニーナちゃん】の名前を選んだ。
「おい、何をしている?」
「電話よ。貴方が避けられていても、私が避けられてるわけじゃないもの」
鼻で笑ってやると、エリックさんは気に入らないとでも言うようにテーブルの下で私の足を蹴った。こいつ……。
何度目かのコール音の後に、可愛らしい声が電話の向こうから聞こえてきた。
『はい…もしもし』
「あ、ニーナちゃん?アリスだけど」
『あ、はい。お電話ありがとうございます』
「あの…言いにくいことならいいんだけど、エリックさんと何かあったの?」
『え?特に何もありませんけど、何かあったんですか?』
「何か、本人がニーナちゃんに避けられてるって言ってるんだけど…」
『あー…すいません、ちょっとエリックには秘密にしたい用事があったっていうか…』
「用事?」
『今ちょうどエリックの所に行ってるんです。後で誤解を解いておきますね。わざわざありがとうございます』
「あ、ちょっと待って。今エリックさん食堂にいるの。奥の方のテーブルなんだけど、分かる?」
『…もしかして今一緒にいます?』
「えぇ、そうよ」
『あ、じゃあ、用事があったってことはまだ言わないでくださいね。今行きますので!』
そこで通信は途絶える。
どういうことかしら…?よく分からないけど、ニーナちゃんの方はエリックさんが嫌で避けてるって感じはしないわね。
私は疑問を感じながらも携帯をポケットにしまった。
「おい、どうだったんだ」
「今からここに来るそうよ」
「ニーナがか?」
「えぇ。私がこの席にいるのもあれだし、離れたテーブルから見物でもさせてもらおうかしら」
そう言って少し離れたテーブルに移動すると、ちょうど晩ご飯が運ばれてきた。トマトのファルシとラタトゥイユだ。
この組織にいるのも残り少ない期間だろうし、この食堂のメニューを今のうちに色々と食べておきたい。
残り…少ない期間。そう、残り少ない期間。
ラスティ君のおかげで最も難しいと思っていた8階での任務も早めにこなせそうだし…それが終わったら、すぐに秘書を辞めてクリミナルズに帰る。こんなのはいつものこと。
「エリック…!」
向こうからニーナちゃんが走ってくる。手に何か持っているようだった。
「ニーナ!」
ガタッと立ち上がって抱き締めてこようとしたエリックさんを華麗に避け、その何かを控えめに差し出す。
「選ぶのに時間が掛かってしまって、包装はしてもらってませんけど…良ければどうぞ」
シルバーのネクタイピンだった。どういうことだろう…?
「今日は貴方が私を救ってくれた日でもありますから…お礼です」
そう言ってニーナちゃんは、はにかむように笑う。
なるほど、ニーナちゃんはエリックさんへのプレゼントを買いに行ってたのね。
それをエリックさんが避けられているって勘違いしてたわけか…。
「…ありがとう」
エリックさんはふにゃりと、きっとニーナちゃんに対してでないと向けないであろう笑顔を浮かべた。
「私も部屋にプレゼントを用意してあるんだ。行こう」
「…高すぎる物は受け取りませんからね」
エリックさんは立ち上がり、ニーナちゃんの肩に手を回して去っていく。
私はその様子をテレビの画面を見つめるように眺めているだけ。
私は夕食を口に運びながら、まるで2人だけの世界にいるような人達ね…なんて思った。
売春婦になるしかなかったニーナちゃんと、そんなニーナちゃんを買ったらしいエリックさん。
私とニーナちゃんは似た者同士なのかもしれない。
私も――…世の中の理不尽さから逃げてきた人間の1人なのだから。
―――
―――――
夕食を終えた後。
私は5階ではなく9階のシャワールームで事を済ませ、薄暗い廊下に出た。
まだ乾いていない髪をゴムで束ね、ふと隣の部屋のドアが少しだけ開いていることに気付く。
あの部屋は確か…前にブラッドさんが書斎だって言ってた部屋よね。
昼間は開いてなかったし、もしかしてもう仕事から帰ってきたのかしら?
“お疲れ様”くらい言っておこう…なんて思い、ドアをノックする。
しかし返事はない。
そっと覗いてみると、中には大きな机と大きな本棚――沢山の書類と沢山の本があった。
ブラッドさんの姿はない。
灯りが付いているし、ついさっきまでいたような気配はあるのだけど…。
……っていうか、何で私がここまでブラッドさんのこと気にする必要があるのよ?
“奴隷だった”なんて話聞いたせいかしら?それとも今朝の寂しそうな表情のせい?
どっちにせよ、私がするべきことは他にあるんだから…余計なこと気にしてちゃダメよね。
私はドアから離れ自分の部屋に戻ろうとした――が、止まった。
書斎の本棚の中に、見たことのある本があったからだ。
一瞬見間違いかと思ったけれど、目を細めてよく見てみても、やはり見覚えのある本だった。
あれは――…研究所で見た本だ。
私はあの本を見せられ、初めて研究の内容を詳しく知ることになった。
タイトルは――“マーメイドプランに関する詳細と今後”――どうしてこんな所にあの本があるのか分からない。
そう簡単に手に入るような物だとも思えない。
落ち着いて脳内を整理する。
ブラッドさんはこの組織の司令官…同時に優秀組のリーダーでもある。
あの研究について知っていてもおかしくはない。
2つのコップの中の氷が水に溶けていく。
「ニーナはまだ幼いのに、身体を売るしかなかったんだ」
そう言うエリックさんの目は、どこか悲しそうだった。
「…そんなこと私に言っていいの?」
「あいつらは別にこのことを隠そうとはしていない。この組織の大抵の人間が知っている」
“ある女の所有物”――ジャックが言っていたのは、このことだったのかもしれない。
「この組織にいる連中は、そんな世の中の理不尽さから逃げてきた奴も少なくない。私はそんなやつら――ニーナも含めて全員を救いたい」
目の前にいるエリックさんを見ているはずなのに、どこか遠くの人を見ている感じがした。
「今日を自分の誕生日にしたいと言い出したのはニーナだ。自分が解放された日だから、と。だが避けられている。何故だか分からない。去年は一緒だったというのに」
「…だから私を呼んだわけね。ニーナちゃんにとっても大切な日なら、確かに避けるのには理由がありそうだわ」
何だかんだでニーナちゃん、エリックさんのこと嫌いではなさそうだし。
まぁこういうのはゴチャゴチャ考えるより本人に直接聞いた方が早いんじゃないかしら?
私は携帯を取り出し、連絡帳から【ニーナちゃん】の名前を選んだ。
「おい、何をしている?」
「電話よ。貴方が避けられていても、私が避けられてるわけじゃないもの」
鼻で笑ってやると、エリックさんは気に入らないとでも言うようにテーブルの下で私の足を蹴った。こいつ……。
何度目かのコール音の後に、可愛らしい声が電話の向こうから聞こえてきた。
『はい…もしもし』
「あ、ニーナちゃん?アリスだけど」
『あ、はい。お電話ありがとうございます』
「あの…言いにくいことならいいんだけど、エリックさんと何かあったの?」
『え?特に何もありませんけど、何かあったんですか?』
「何か、本人がニーナちゃんに避けられてるって言ってるんだけど…」
『あー…すいません、ちょっとエリックには秘密にしたい用事があったっていうか…』
「用事?」
『今ちょうどエリックの所に行ってるんです。後で誤解を解いておきますね。わざわざありがとうございます』
「あ、ちょっと待って。今エリックさん食堂にいるの。奥の方のテーブルなんだけど、分かる?」
『…もしかして今一緒にいます?』
「えぇ、そうよ」
『あ、じゃあ、用事があったってことはまだ言わないでくださいね。今行きますので!』
そこで通信は途絶える。
どういうことかしら…?よく分からないけど、ニーナちゃんの方はエリックさんが嫌で避けてるって感じはしないわね。
私は疑問を感じながらも携帯をポケットにしまった。
「おい、どうだったんだ」
「今からここに来るそうよ」
「ニーナがか?」
「えぇ。私がこの席にいるのもあれだし、離れたテーブルから見物でもさせてもらおうかしら」
そう言って少し離れたテーブルに移動すると、ちょうど晩ご飯が運ばれてきた。トマトのファルシとラタトゥイユだ。
この組織にいるのも残り少ない期間だろうし、この食堂のメニューを今のうちに色々と食べておきたい。
残り…少ない期間。そう、残り少ない期間。
ラスティ君のおかげで最も難しいと思っていた8階での任務も早めにこなせそうだし…それが終わったら、すぐに秘書を辞めてクリミナルズに帰る。こんなのはいつものこと。
「エリック…!」
向こうからニーナちゃんが走ってくる。手に何か持っているようだった。
「ニーナ!」
ガタッと立ち上がって抱き締めてこようとしたエリックさんを華麗に避け、その何かを控えめに差し出す。
「選ぶのに時間が掛かってしまって、包装はしてもらってませんけど…良ければどうぞ」
シルバーのネクタイピンだった。どういうことだろう…?
「今日は貴方が私を救ってくれた日でもありますから…お礼です」
そう言ってニーナちゃんは、はにかむように笑う。
なるほど、ニーナちゃんはエリックさんへのプレゼントを買いに行ってたのね。
それをエリックさんが避けられているって勘違いしてたわけか…。
「…ありがとう」
エリックさんはふにゃりと、きっとニーナちゃんに対してでないと向けないであろう笑顔を浮かべた。
「私も部屋にプレゼントを用意してあるんだ。行こう」
「…高すぎる物は受け取りませんからね」
エリックさんは立ち上がり、ニーナちゃんの肩に手を回して去っていく。
私はその様子をテレビの画面を見つめるように眺めているだけ。
私は夕食を口に運びながら、まるで2人だけの世界にいるような人達ね…なんて思った。
売春婦になるしかなかったニーナちゃんと、そんなニーナちゃんを買ったらしいエリックさん。
私とニーナちゃんは似た者同士なのかもしれない。
私も――…世の中の理不尽さから逃げてきた人間の1人なのだから。
―――
―――――
夕食を終えた後。
私は5階ではなく9階のシャワールームで事を済ませ、薄暗い廊下に出た。
まだ乾いていない髪をゴムで束ね、ふと隣の部屋のドアが少しだけ開いていることに気付く。
あの部屋は確か…前にブラッドさんが書斎だって言ってた部屋よね。
昼間は開いてなかったし、もしかしてもう仕事から帰ってきたのかしら?
“お疲れ様”くらい言っておこう…なんて思い、ドアをノックする。
しかし返事はない。
そっと覗いてみると、中には大きな机と大きな本棚――沢山の書類と沢山の本があった。
ブラッドさんの姿はない。
灯りが付いているし、ついさっきまでいたような気配はあるのだけど…。
……っていうか、何で私がここまでブラッドさんのこと気にする必要があるのよ?
“奴隷だった”なんて話聞いたせいかしら?それとも今朝の寂しそうな表情のせい?
どっちにせよ、私がするべきことは他にあるんだから…余計なこと気にしてちゃダメよね。
私はドアから離れ自分の部屋に戻ろうとした――が、止まった。
書斎の本棚の中に、見たことのある本があったからだ。
一瞬見間違いかと思ったけれど、目を細めてよく見てみても、やはり見覚えのある本だった。
あれは――…研究所で見た本だ。
私はあの本を見せられ、初めて研究の内容を詳しく知ることになった。
タイトルは――“マーメイドプランに関する詳細と今後”――どうしてこんな所にあの本があるのか分からない。
そう簡単に手に入るような物だとも思えない。
落ち着いて脳内を整理する。
ブラッドさんはこの組織の司令官…同時に優秀組のリーダーでもある。
あの研究について知っていてもおかしくはない。