窓の外には黒いインクをぶちまけたような闇が広がっている。


密室、2人きりの空間。早く部屋に戻りたい。




「……飼い猫の次は雌犬、ね」


「俺なりの洒落た口説き文句なんだけどなぁ」


「どこが洒落てるのよ。侮辱にしか聞こえないわ」


「んんー?何々、随分生意気じゃん?その口塞いであげよっかぁ」


「生憎貴方と遊んでいる暇はないの」



何だか本当に眠くなってきたし疲れたし。


私は彼の手を振り払い、踵を返して出口へと向かった。






「ふぅん、まぁいいや。精々リバディーで“死なないように”ねぇ?アリス」


「……嫌味にしか聞こえないわよ、シャロン」




最後に互いの名前を呼び合い――…私は雇い主の部屋を出た。
数週間後。



やたらと陰鬱な空に嫌気が差しながらも、私は眉を寄せて上を見上げる。



私の目の前に広がるのは全10階建ての大きな建物。


敷地が広く、マップでも書かないと迷子になってしまいそうだ。




「ここがリバディーの本拠地…」




あれからシャロンは模範的なまでに手際よく手続きをとり、私に“あの3人の新しい秘書”という非常にふざけた役割をくださった。



私はその役割をうまく使って情報を得るわけだ。…いくらなんでもあの3人の秘書となると、シャロンを殴りたくなってしまう。


まぁ、シャロンからの任務を怖いから断る、なんて私のプライドが許さなかったけれど。




「……約束の時間ね」




私は入り口の前で身だしなみをチェックし中へと入った。


今身に纏っているのは、事前に送られてきた秘書用の服。



ニーハイ、ボーダーワンピ、黒いミリタリージャケット、腰の周りに黒いウェストポーチ…全体的にモノトーン系。



ワンピースの下に履くズボンなんかは送られてこなかったし、風に当たると太股が冷たい。
自動ドアを通って中へ入れば広い空間が広がった。


シンプルな造りで、殺風景とも言えるフロア。



むしろ真正面の受け付けと奥にあるエレベーターくらいしかないんじゃないかと思う。


一応言い訳程度の観葉植物や新聞があるけれど、それでもやはり面白味はない。




「何かご用でしょうか?」



受け付けに立つ1人の若い少女が私にそう尋ねてきた。



小顔で髪はブラックブルー色のショートカット、見たところ私よりは年下。


白いシャツの上に真っ黒でぶかぶかなニットカーディガンを着ているせいか袖から手が出ていない。


赤いネクタイとミニスカートが女の子らしさを引き出し、こんな小動物のような子がここの受け付けをしていていいのかと心配になる。




「この時間にここに来いと言われているんですが、連絡は入っていませんか?」



慣れない敬語でそう返すと、少女は少し考え込むような素振りを見せた。


この様子だと知らないみたいね…これじゃ私、完璧に不審人物じゃない。
「少々お待ちください」



淡々とそう言った少女は素早く誰かに電話を掛け始めた。


何だか機械的というか、人間味がないというか。


電話の間も少女は無表情で、愛想笑いという概念を忘れてしまうような感覚に陥る。



暫くして電話を終えると、少女はゆっくりと視線を上げた。



「新しい秘書のアリスさんでよろしいでしょうか?」


「ええ、はい」


「上と連絡がとれました。9階で待っているそうです」


「…ありがとうございます。では」



ペコリと一礼して早々と奥にあるエレベーターへ向かおうとした私。


しかし、少女は何処からともなく1枚のカードを出し、やはり淡々とこう告げた。




「いえ、あのエレベーターはカードなしでは使用できません。これがそのカードです」
静かに少女が渡してくるカードを受け取り、私はそれをまじまじと眺める。


泡のようなワンポイントのある、これまた至ってシンプルなカード。



「階を移動できるのはエレベーターのみとなっています。これからは頻繁に使うと思いますので、なくさないようお気をつけください。それから、このカードが外部の人間に渡ってしまった際には――」



表情1つ変えず、平々凡々たることを言っているかのように、




「どれだけ逃げようと地の果てまで追い掛けて貴女を殺害することになりますので、宜しくお願いしますね」



殺害という言葉を出す少女。




「……ご忠告感謝するわ」



私はそれだけ答えてエレベーターの9階のボタンを押した。


7階と10階へのボタンだけないことにふと違和感を覚えつつ、それに乗り込む。
こんなエレベーターが存在したのかと思うほど広い。


指先でその壁を触ってみる。階から階までのたった1つの移動手段なだけあって、とても頑丈そうだ。


爆破にも耐えられる仕組みになっているんだろう。



私は監視カメラの有無を丁寧に確認し、右耳の白いピアスの裏側にある窪みを指で軽く押した。


同時に聞き慣れたザザザ…という機械音がして、眠たげなシャロンの声が聞こえてくる。




『もしもぉーし?』


「今リバディーの本拠地に入れたわ」


『ふぅん…意外とあっさりなんだね、つまんない』


「不謹慎なこと言わないでくれる?私はあっさりいかないと困るのよ」




このピアスはただのアクセサリーではなく通信機。


活動中は電源をOFFにしているけれど、向こうから掛けてくることもできる。


所謂小型電話のようなもの。
『で、なぁんで掛けてきたのぉ?』


「ふざけるのも大概にしてくれないかしら。私、具体的な仕事内容すらまだ伝えてもらってないじゃない」


『そうだっけぇ?まぁとりあえずリバディーの内部を把握してほしいかな。あと8階に行く機会をつくって』


「8階…?8階に何かあるの?」


『あ、今から情報番組始まるから切るねぇ?』


「はぁ?ちょっ…」



再びザザザ…と機械音がして通話は途切れた。



あの男、いつも以上に適当なうえ楽しんでいる気がする。


多忙なのは分かっているけれど、あいつにとって私の危険なんかいつでも見られるテレビよりも価値がないものというわけだ。


そういう奴なんだから仕方ない…とこうしていつも割り切っている。




 ポーン…。


ボタンの上にある画面に【9】と表示され、ゆっくりとドアが開く。
そして私の目の前に広がったのは極普通の廊下。


リバディーの本拠地内はもっととんでもない場所と思っていたせいか、何だかほっとした。




――しかし、次の瞬間その認識が甘いことに気付かされる。





「あ、僕と同じ金髪ちゃんだね」




いきなり廊下の奥の突き当たりから現れた1人の男。



彼が何か変わったことを言ったわけでもしたわけでもない。


それでもゾワリと全身に寒気が走る。



今この場に100人の人間がいたとして、『こいつのこと気味悪いと思う?』とでも聞けば絶対に満場一致するだろう。






其れほどまでに――目の前にいる男が纏う雰囲気は“異様”だ。