急に腕を引っ張られたのだ。
私は未だ座った状態のブラッドさんの胸の中に収まっている。


停止しそうになる思考回路を必死で元に戻す。



「は、なしてくれない?」



これは性分…というか、つい癖でキツい口調になってしまった。




しかしブラッドさんはそんなこと全く気にしないという様子で、



「やっぱり似てますね」



―――鳥肌が立つほど愛しそうな微笑みを私に向けたのだ。



今朝ラスティ君が話してくれたことが脳裏に過る。


嗚呼この人は…私と初恋の人を一緒にしているんだ、と直ぐに悟った。



「まだ書類が残ってるの。離してくれないと仕事ができないわ」


「そんな詭弁を言われても困ります。これも仕事だと思ってください」



詭弁を言ってるのはどっちよ…!
「“こういう”仕事だなんて聞いてないのだけど」


「聞こえませんね」


「貴方ね…!…ったくもう、離さないなら後でこのパソコン壊すわよ」


「……それはちょっと困ります」



不服そうに私を解放したブラッドさんは、カップを手渡してきた。



「何?」


「ココアは飽きました。何か別のものを淹れてきてください」



それならずっと抱き締められているよりは何倍もマシな仕事。


どこかほっとしつつカップを受け取り、寝ているアランの横を通ってカフェモカをつくる。



「不味かったらごめんなさいね」


「君の淹れた珈琲は美味しいとアランから聞いていますが?」



無自覚なのかはまだ知り合って日が浅い故に判断しかねるけれど、プレッシャーをかけられているのは事実。
もしも自覚があるとしたらなかなか優しくない…というか寧ろ見掛けに寄らず意地悪だ。



「そんなに珈琲が好きなら2階で買い溜めておけばいいじゃない。缶珈琲じゃダメなの?」



ラスティ君だって自販機で買ったパックのいちごミルクを冷蔵庫の中に入れてるみたいだし。



「それもいいですけど、今日は君が淹れたものを飲みたいんです」



成る程、つまりここには変人しかいないのね?変人の集いと書いてリバディーと読むのね?



「それほど期待されても困るわ」


「ここのところ秘書が立て続けに辞めてしまって、仕事をしながら淹れたての珈琲を飲む機会がなかなかないので、余計に欲しくなるんですよ」


「……仕事、ねぇ。貴方は主に何をしているの?」



先日ラスティ君に聞いた話を考慮するとこの3人はそれぞれ役割分担らしきものをしているのかもしれない。


ラスティ君が覆面パトカー、アランは銃を持っていたからおそらく戦闘要員、ならこの人は――?
「クラッキングです」


「………は?」



あっさりとそう言われ思わず手を止め振り返ってしまった。



クラッキング…?一応この組織警察とも関わってるのよね?そんな犯罪紛いのことしてていいわけ?




「情報を得たいなら正当な方法を優先すべきではありません」




シャロンの元にいるから身近にクラッカーは沢山いたけれど、実際に関わったことはないしあまり知らない。



でもそれが不正にネットワークやシステムに侵入し、プログラムの改竄をしたりデータを盗んだりする行為だということは知っている。


彼はそんな技術を使って情報を得ているということ。



「……そんなにさらっと私に言っていいの?」
そう、これも1つの疑問。


いくら秘書でもここまで容易に仕事内容を明らかにしていいのかしら?



勿論私としては有利なのだけど、過信は失敗を招く。


向こうが私のことを勘づいていてわざと偽りの情報を流している場合もあるしね。




しかし彼は何でもないような口調で、


「別にいいですよ。君が仕事の邪魔になることはありませんし」


「…ふーん」


「それに、俺の初恋の人に似てますしね」



結局は下心、と。



「そんなに似てるなら私の親戚か何かかもしれないわね。名前は?」


「春です」


「…ハル、ね。それって漢字?」


「漢字ですよ。日本人なので」




こんなことまでさらっと言うなんて…。
私は正面を向き、カフェモカをつくる手を再開する。



「死んだのに諦めないなんて、恋は本当に脳内麻薬なのね」


「ラスティから聞いたんですか?」


「…もしかしてこの話は触れない方が良かったかしら?詮索するような真似してごめんなさい」



口では謝っていても、詮索することが私の本業。


調べることをやめたりはしない。



「別にいいですよ。それに、俺はまだ春を探してます」


「無意味なことをするのが好きなの?」


「俺は春が殺される瞬間をこの目で見ました。でも彼女はまだ指名手配されている」


「……つまり何かの手違いかもしれないそれに僅かな希望を捨て切れられないわけね」



どうして人はこんなにも恋愛に酔うのか分からないけど。



私の言葉に何か言おうとして、しかし黙り込んでしまったブラッドさんは、その後口を開くことはなかった。


淹れたてのカフェモカを彼のデスクに置き書類纏めに戻る。





情報収集は順調。


この調子なら次にどんな指令が来てもさくっと終わらせて帰れそうだわ。
―――夜。



何とかディナーの時間までに書類を片付けることができ、自分で肩を揉みながらエレベーターに乗る。


本当はさっさと終わらせて部屋からシャロンに連絡を取る時間が欲しかったのだけれど、それは叶わなかった。



今回はドアをこじ開けてまで入ってくる変人はいないようだし、ここで済ましてしまおう。


そう思い右耳のピアスの裏側の窪みを人差し指で軽く押す。




『もっしもぉ~し。頑張ってるぅ?』



ムカつく程にだらしない声音を聞くと殺意すら沸いてきた。




「……8階での具体的な仕事内容を教えて」


『先にリバディーの内部を把握してって言わなかったっけぇ?』


「それはこれからゆっくりやっていくつもりよ。1つの任務が終わったらまた1つの任務を課せられるって形より、しなければならない仕事の全体を知っていた方が動きやすいの。分かってるでしょ」



まぁ、この男のことだからわざと私がやりにくいようにしてるんだろうけど。
『んー、仕方ないなぁ。じゃあ言うけど、8階は情報管理室らしいんだよねぇ』


「……全部盗んで来いって?」


『まさか。その階にあるデータの中に俺らの組織の情報も入ってるみたいだから、それだけ消去しといてほしいんだよね』



簡単でしょ?と言わんばかり。


私たちの組織――つまりクリミナルズの情報が8階にある。


それを消去することがどれだけ困難かシャロンが言わないのは、こちらを困らせようとしているか純粋に分からないのかのどちらかだ。おそらく前者。




「分かったわ。それが終われば帰っていい?」


『もっちろーん。ついでに例の3人の弱味でも握ってくれると最高だよー?』


「……」



弱味と言っていいのか分からないけれど、一瞬ラスティ君の妹の話やブラッドさんの初恋の人の話を思い出した。