久しぶりに見た暗闇以外の空はすぐに暮れ、見慣れた闇夜に変わり、私たちはタクト君のお宅で夕食をごちそうになった。
「お姉ちゃん、こっちも食べて!! 美味しいよ!!」
「あ、ずるい!! お姉ちゃん、私の方が美味しいよ!!」
「これだって美味しいよ!! ほら、食べて!!」
「は、はは……。ありがとう。どれもすっごく美味しいよ」
タクト君は3兄弟の末っ子で、上のお兄ちゃんとお姉ちゃんともすっかり打ち解けてしまった私は、ただいま絶賛餌付けされ中である。
「ずいぶん気に入られたな」
「ふふ。私にも弟たちがいたので、にぎやかで嬉しいです」
「そう、だったな……」
そう言うとゼノンは少しだけ黙り込んで、神妙な表情で私を見つめた。
「帰りたいか? 元の世界へ」
「へ? あぁ……そりゃまぁ……弟たちには会いたいです。でも……ゼノン達とも一緒にいたいですから、私」
未練がないわけじゃない。
ゼノン達との生活も大切なのだと思い始めている今、その問いにははっきりとは答えられなかった。
「そうか……」
ゼノンはそれだけ言うと、また難しい顔をして黙ってしまった。
どうしたんだろう?
「お話を伺うに、国王陛下は国費を使って恋人に貢いでいるということでしたが……それは事実で……?」
タクト君のお父さんの問いかけに、私は深くうなずいた。
「あの人は私を異世界から強制的に攫って婚約させておきながら、恋人に国費から貢いで毎日プレゼント三昧です。公務もさぼってますし、ほとんどを宰相が担っています。アレ要ります? 正直、私要らないと思うんですけど。あのポンコツ陛下」
「落ち着け鬼嫁。あんなでも一応国王だ」
そうだった。
もしここに間者でもいれば不敬罪になるところだった。
だけど要らないと思うんだ、あいつ。マジで。
「そうですか……。それで納得がいきました」
「え?」
「実はこの町はずいぶん前から領主の視察すらなく、町の干ばつが酷く税を納めるのが厳しくなって助けを求めても、領主からは何もしていただけないままで……。国に嘆願書を送っても、一向に返事が来ないという現状で……。そうですか……。国王陛下が職務を怠慢されているのならば、それも納得がいきます」
あのクズ……。
「ゼノン。やっぱり滅ぼしましょ、人間」
「落ち着け。少しは穏便に済ませようとすることを覚えろ」
多分、一般的な魔王のイメージって私みたいなのを言うんだろうと思う。
ゼノンはあまりに、優しすぎる。
「干ばつ……か……確かにここのところ門の外では雨が降っていないということは聞いていたが……」
門の中ではこの間大雨だったけれど、外と中では気候も違うようだ。
「要は干ばつで作物が育たないということだな? それならば私が何とかできるだろう」
「へ?」
「本当ですか!?」
何とかできる?
雨乞いでもするっていうの?
いや、そもそも雨乞いって効果あるのだろうか?
「え、ちょ、ゼノン? 本当になんとかできるの?」
「あぁ。造作もない」
あまりに自信たっぷりに言うのだから何か考えがあるんだろうけれど……大丈夫なのかしら?
不安な私をよそに、ゼノンはタクトの両親に言った。
「明日、またここに来ても良いだろうか? その際に、干ばつの件は解消させよう」
「本当ですか!? ありがとうございます!! もちろんです!! いつでもいらしてください!! 町の皆にも伝えておきますので!!」
一体どんな策があるのだろうか。
私はまだわからないまま、その日は和やかに久しぶりの人間界での夕食を終えた。
「綺麗なまでに干上がっているな……」
「カッピカピですねぇ……」
翌朝私はゼノンに連れられて再び町へ降り立った。
あぁ、朝日がまぶしい。
今のうちにしっかりと光合成しておかなきゃ。
「このように、水不足ですっかり干上がってしまって……。もう、作物も育たないんです」
そうだろう。
これだけ干上がっていたら土もダメになっているだろうし、土壌改革からするしか……。
ん?
土壌改革?
「!! まさかゼノン……!!」
その考えに思い至った私に、ゼノンは無言で首を縦に振った。
「シャイリー!! ゴルゴラ―ド!!」
「ぷしゅぅ~~~~~」
「きゅる~~~っ」
ゼノンの呼ぶ声に応えるように声を上げながら私たちの目の前に現れたのは、巨大な蛇のような下半身をした魔物と、中型で土色をしたドラゴン。
水魔のシャイリーと、土竜のゴルゴラ―ドだ。
「おぉ……」
「これは……」
「すごーい大きいー!!」
「カッコいい―!!」
驚きに声を上げる町の大人たちと、目を輝かせて二体を見上げる子供たち。
「ゴルゴラ―ド!! ここら一体の土の浄化を。シャイリーは土壌に水分を与えてやってくれ」
「ぷしゅぷしゅ~~~」
「きゅる~~~」
ゼノンの指示に二体は返事をすると、ゴルゴラ―ドは土の中へもぐり、シャイリーは空へと飛びあがった。
ごぼごぼごぼごぼ……。
大地がうねるようにして盛り上がり、同時にシャイリーが宙から降らせる水によって湿り気を帯びていく。
カピカピとした砂漠色の大地は、みるみるうちに湿った濃い土色の大地へと変化していった。
「すごい……」
「これなら作物が実るかもしれない……!!」
「あとは作物ができるまでの税をどうするかだ……」
期待の声が大きくなる中、それでも不安は無くならないのが現実だ。
だって今土壌が良くなったところですぐに作物ができるわけではない。
これから苗を植えて、育てなければならないのだ。
「ふむ……。それもそうだな。ゴルゴラ―ド!!」
「ぷしゅ~~~~~」
ゴルゴラ―ドが声を上げると同時に、なんと回復した土地から緑色の芽がグンと生えて、それがにょきにょきとすごいスピードで成長を始めてしまった。
「ふぁ……ファンタジーだわ……」
いや、魔界がある時点でファンタジーなんだけれども……。
あっという間に出来上がったのは小麦。
黄金色に輝くそれは、今まさに収穫できますよと言わんばかりだ。
「ひとまずこれで数か月分の税は問題ないだろう。この収穫の後からは、自分たちで植えて育てることだ。だが、まだ日照りが続くようなら同じことの繰り返しだ。当面、シャイリーは土地に水をやってくれ。ゴルゴラ―ドも、時々土壌の浄化を頼みたい」
「ぷしゅ~~~」
「きゅるきゅる」
二体は了承の意を示すと、しゅるしゅると黒い霧に紛れて消えた。
「す、すごい……」
「これで生きていける……!!」
「魔王様、ありがとうございます!!」
「魔王様万歳!!」
唖然としてその光景を見ていた町の人々が口々に歓声を上げる。
「どれだけ感謝を述べたらいいのか……。本当に、ありがとうございます!!」
「私たち人間にできることはわずかですが、何か、私達に力になれることがありましたら、おっしゃってくださいね」
「これからは隣人として、魔界の皆さんと共に生きていきたいと思います……!!」
人間と魔族が歩み寄る、そんなきっかけになる出来事だった。
***
それからというもの、町はすっかり明るくなった。
シャイリーたちをはじめとした魔物と町の人は交流を重ね、すっかりと打ち解けたし、町の人は畑仕事を手伝ったりする魔物にご飯を差し入れてくれたり、フェンリルの子ども達は町の子ども達とよく遊んだりして平和に暮らしている。
それを知った周辺の町からも魔物の手を借りたいという依頼が来て、魔物の出張もしている。
たくさんの地域で魔物との共存の輪が広がっていく。
もしもこのまま魔族は怖くないのだということが広まれば、人間と魔族が手を取り合って生きていける世界になるかもしれない。
そんな淡い期待を、この時は抱いていた。
「もう国費は出せないだと!? なぜだ!? 税収は入っているんだろう!?」
いつものように可愛いエスターニャにドレスでも買ってやろうと国費からねん出させようとしたところを、宰相が首を横に振った。
俺は激怒した。
今まで俺の言うことには従ってきた宰相が、初めて俺に逆らったのだ。
俺の言葉に、宰相はもう一度首を横に振った。
「もうほとんど国費は残っておらず、税収も減る一方でございます」
「はぁぁあ!? なぜだ!? 各領の領主は何をやっている!?」
納税は国民の義務だろう!?
それを国に納めることができんとは反逆罪じゃないか!!
「それが……ほとんどの領地はもうずいぶん前から疲弊して、干ばつや災害で税収が思うように上がらないとのこと……。改善をと何度も嘆願書が来ていましたが、陛下はご確認もなさらず……」
「何だと? それはお前が何とかすることだろう!!」
まったく。
何のための宰相だというのだ。
無能な奴め。
「そんな……」
「そんなに深刻な状況なのか? 少しも国費を使えぬほどに?」
どうせ宰相が事を大きく話しているに決まっている。
そう思っていた俺は、この後の宰相の答えに初めて危機感を覚えることとなった。
「……はい。千奈様を追放されてから、各地で雨が降らなくなりました。土地は干上がり、作物は育たず、枯れ、水も不足し、衛生状態が危機的状況に陥っている村もあるほど……。加えて各地で地震や山火事などの災害まで起きて、国はもうめちゃくちゃです。このままでは、この国は終わります……」
「なっ……国が終わるだと!?」
そんな……。
そんなこと……。
そこで俺の脳裏に、あの異国から召喚した元婚約者の顔が過ぎる。
『国王が異世界の女人と婚姻を結べば、国を繁栄に導くであろう』
あのお告げ……まさか……。
異世人を追放したから……繁栄とは反対に、この国に災いが起こっているというのか?
くそっ!!
「宰相!!」
「は、はいっ!!」
「すぐにあの女──千奈をここへ連れてこい!!」
「は、は? ですがあの方はすでにゼノンディウス殿下の──」
戸惑ったように視線を彷徨わせる宰相に、俺のいら立ちは最高潮に達する。
「俺の前でその名を口にするな!!」
忌々しいあの男。
優しく聡明で誰にでも分け隔てなく接するのだと臣下からも慕われていた義兄。
魔の力を持っていると分かって追放されてからも尚、あいつを慕う者は多いのを、俺は知っている。
本当に……忌々しいものだ。
「さっさと千奈を連れてこい。あいつには気づかれないように。一人の時を狙え。逆らったら──宰相、お前の一族郎党、首をはねることになるぞ」
「!! わ、わかりました。……お心の、ままに」
そう頭を下げると、宰相は部屋から立ち去った。
千奈──。
仕方がない。
口うるさい女だが、あの男との婚姻の破棄の手続きをし、俺との婚姻手続きを進めなければ。
俺のものにしてから、ここで飼い殺してやる。
結婚すれば、繁栄するのだから、それでいいだろう。
そうして俺はエスターニャを正妃として迎え、繁栄するこの国で何不自由なく暮らすのだ。
俺は窓の外から見える魔界へ続く門を睨みつけるように見つめると、これからすべてうまくいくことを信じてにたりと笑った。
「千奈」
「ゼノン? どうぞ、開いてますよ」
丁度眠ろうとしていた頃、私の部屋をゼノンが訪れた。
私とゼノンは結婚したとはいえ寝所は別だ。
まぁ、強制的な形だけの結婚だし、仕方ないといえば仕方ないのだけれど、最近、少しだけモヤモヤしている自分がいる。
このまま、ゼノンとは形だけの夫婦なんだろうか、と。
思った以上に、私はゼノンのことが好きみたいだ。
魔王なのに、人間である私なんかよりずっと優しくて、お人好しで、あったかい人。
惹かれない方がおかしい。
だけどゼノンは……うん、多分ただ義弟に押し付けられた鬼嫁としか思っていないだろう。
きっとこれから先も──。
「失礼する」
そう言って私の部屋に入って来たゼノンの表情は、どこか硬いように思える。
「どうしたんですか? こんな夜遅くに」
「すまない。仮にも女性の部屋に、こんな時間に尋ねるものではないことは承知していたのだが……」
「仮にもじゃなくても私は真の女性です」
今のではっきりわかった気がする。
完全に私、アウトオブ眼中だ……!!
わかってた、わかってたよ。
私みたいなすぐ人間滅ぼそうとか言う狂暴女嫌よね。
国王だって私のこと散々口うるさい鬱陶しい女だとか言ってたし。
「あ、あぁ。それは承知だ」
……本当か?
まあいいわ。流しておいてあげましょう。
「どうぞソファへ。それで、どういうご用件で?」
私はゼノンをソファへ座るよう促すと、用件を尋ねた。
我ながらツンツンとした言い方になってしまったと気にはなったけれど、それを訂正するほど心の余裕はなかった。
「あ、あぁ。……まず、千奈に礼を言いたかった」
「お礼? えっと、一体何の?」
全く身に覚えがない私が首をかしげると、ゼノンは座ったばかりのソファから立ち上がり、向かいの私の隣に腰かけると、ゆっくりと口を開いた。
「人と……魔族が、手を取り合うなど、考えたこともなかった。私は一生、この暗い魔界で、人間として生まれたにもかかわらず人間と関わることも許されないままに生きるのだと……。魔族も閉じ込められた空間の中で、不自由に暮らしてきた者たちばかりだ。それが君のおかげで、魔界の外に出ることができた。もう一度、青い空の下を歩くことができた。人と、魔物が共存することができた。感謝してもしきれない。本当に、ありがとう」
そう言ってゼノンは深く頭を下げた。
そうか……。
ゼノンだってたまたま闇の力を持って生まれて、魔界に追放されて魔王と呼ばれているだけで、元は人間として生まれてきたんだ。
人として生まれながら人に蔑まれ追放され、青い空や日差しを見ることも許されず、とはいえ魔族にもなり切れない存在。
その心はどれだけ孤独だっただろう。
いくら魔族が皆心優しいとはいえ、やるせない思いを抱えて生きてきたことだろう。
気が付けば、私は彼の手を取っていた。
大きく、さらりとした、骨張った手。
私の好きな手だ。
「私の方こそ、ゼノンにお礼を言いたいです」
「私に、礼を?」
首をかしげるゼノンに、今度は私が彼をまっすぐ見つめて口を開く。
「はい。突然だまし討ちのように強制結婚させられた私なんかをここに置いてくれた。放っておくこともできたのに、毎食ちゃんと一緒に食べてくれた。怪我をして動けなくなっている私を探して助けてくれた。いつも、気にかけていてくれた。だから私、ここにいると暖かかった。ありがとうございます、ゼノン。あなたが私の旦那様で、よかった」
「千奈……。……やはり、このままにはしておけないな」
ぼそりとつぶやいてからゼノンはソファから腰を上げると、今度は私の足元に片膝をついて跪き、私の右手をそっとその手に取った。
「ちょ、ぜ、ゼノン!? どうしたんで──」
「最初は押し付けられての結婚だった」
静かに、一言一言大切に、ゆっくりと言葉が紡がれる。
「でも、今は違う。私は、君にずっと、私の妻でいてほしい」
「!!」
「君を愛してる。生涯ただ一人。君だけを──。私と、夫婦になってもらえないだろうか?」
愛してる。
その言葉が、全身に甘い痺れをもたらす。
私と同じ気持ちであることに歓喜して、心がうるさいくらいに騒ぎ出した。
心にはまだ、弟たちへの未練がある。
だけど──。
「私も、ゼノンが好きです。その……わ、私でよかったら、家族にしてくださいっ」
私のイエスの言葉に、いつもクールなゼノンの表情が目に見えて嬉しそうに和らいだ。
ほんの少し幼く見えるその微笑がなんだか可愛くて仕方がない。
「よかった……断られたらどうしようかと思っていた」
「陰キャですか!!」
「陰キャな旦那はダメだったか?」
あぁもう。
垂れた耳が見える……!!
何なんだこの可愛い生物は……!!
私はたまらなくなって、ゼノンの思い切って胸に飛び込んだ。
「!? せ、千──」
「駄目じゃないです」
「!!」
「私、陰キャなゼノンも、クールなゼノンも、カッコいいゼノンも、今みたいに可愛いゼノンも、全部好きですから」
「~~~~~~っ」
その後私たちはしばらくそのまま抱擁をし、お互いの思いとぬくもりを感じ合った後、ゼノンは顔を赤くして「部屋に戻る」と自分の部屋へ帰っていった。
曰く、『結婚式もまだなのに同衾することはできない。けじめはつけなければならん』とのことだった。
本当に、真面目で純朴で……素敵な旦那様だ。
結婚式をしてくれるつもりなのだということも驚いたけど、嬉しい。
それでもまだ心のどこかで弟たちを気にしているのは、ゼノンには黙っていよう。
どうにもならないことを言って不安にさせたくはないから──。
その翌日だった。
私が町で一人になったところを、何者かに後ろから殴られ攫われることになったのは──。
「千奈が消えた!?」
「うん……。お姉ちゃん、農具を倉庫に取りに行ったきり戻ってこなくて……探したけどどこにもいないんだ……」
今日は結婚式の予定を詰めるため、私は城に残り諸々の確認作業をしていた。
町へ続く崖には今では梯子がかかっているため、今日は一人で町に行き、町の農作業の手伝いをするのだと意気込んでいた千奈。
一区切り作業が終わったので迎えに行ってみると、私を見るなりにタクトが泣きそうな顔をして駆け寄ってきて、千奈が行方不明になったことを告げた。
私は目を閉じて魔力を巡らせ、彼女の気配を探る。
が……近くにそれは見当たらない。
一体どこへ……?
「魔王様!!」
焦ったような声が頭上から届き、見上げればアストが城の方から飛んでくるのが見えた。
「大変です魔王様!! 千奈様が、国王に攫われました!!」
「!? アレクが!?」
何故奴が……?
自分で手放した女性を今更……。
「隣町へ荷物を届ける帰り、千奈様の声が馬車から聞こえたので追ってみれば、その馬車は城へ入っていきました。千奈様は手足を拘束され、連れていかれ……。少し偵察したところ、魔王様と強制的に離縁させ、新たに国王との婚姻を結ばせるとか……」
「何だと!?」
千奈が、私以外の男と──?
胸が張り裂けるようだとはこのことだろう。
それと同時にふつふつとマグマのように熱いものがこみあげてくる。
こんな気持ちになったのは、初めてだ。
「強制結婚させたかと思えば強制離婚か……。甘く見られたものだ。──アスト、全魔族に伝えろ。我が妻を取り返しに行く。王家を、滅ぼしに行くぞ」
「はっ!!」
そしてアストは再び翼を羽ばたかせ、魔界へと飛んでいった。
私はくるりと向きを変え、町の人間達に頭を下げる。
「すまない。そういうわけだ。私は、人間界の王家を滅ぼしに行く。妻を助けるために。だが、国民の安全は保障しよう。安心してほしい」
あんな奴でも町の人々にとっては自分たちの王だ。
王無しでやっていくのかと、不安もあるだろう。
だが、今回ばかりは、許すことはできない。
「……ゼノン様。俺達も行きましょう」
そう言ったのは、タクトの父親だった。
「俺も行くぞ!!」
「私も!!」
「あの国王を引きずり下ろせ!!」
次々と湧き上がる反乱の声。
国民も限界だったのだろう。
いつの間にかすべての町の住民が声を上げていた。
「……感謝する。では、先導は魔族が行い、道を切り開く。それに紛れて、皆は人を集め、城を包囲してもらえるだろうか?」
先頭を切るには戦闘が不可避。
国民にそれを強いることはできない。
人か魔族か。
今まで逆らうことなく生きてきただけで、力は魔族の方が上だ。
「わかりました!! 周辺の町の人間も声をかけて駆けつけます!!」
他の町でも国王はあまりいい印象を持たれてはいない。
不満は溜まっているようだった。
国民の声が一つにまとまれば、それは大きな力になる──。
「よし……。準備ができ次第、ラザミリ城へ向かうぞ──!!」
強制離縁の手続きに結婚の手続き。
特に国王の結婚は、結婚式の完遂をもって承認するものとされる。
今すぐにどうこうなることはないだろうが、急がねば……。
千奈、無事でいろ……!!
「……」
「そう睨むな千奈。醜い顔がさらに醜くなるぞ」
「あなたよりはマシな顔してるつもりです」
「っ、相変わらず可愛げのない……!!」
とはいえ顔は良いのだ、この国王。
性格破綻してるけど。
性格も顔も良いゼノンとは大違いだ。
そんな憎まれ口をたたく私は、両手両足を拘束され、謁見の間の床に転がされている。
このまま転がって逃げようかとも考えたけれど、さすがに無謀なので諦めた。
それにしても、まさか町に偵察隊が来ていただなんて……。
「今更私を連れてきて何なんですか? 私を追放したのは陛下ですよね? いつも腕にくっついていたボンキュッボンの恋人とはお別れになられたんですか?」
「チッ……うるさい女だ。エスターニャは私の部屋だ。すべて終わるまで出るなと告げている。お前との結婚式など、見せたくはないからな」
は?
誰と誰の?
「あの、すみません。耳が遠くなったのかもしれません。誰と誰の結婚式です?」
「俺と、お前のだ」
「……」
「……」
「…………はぁああああああ!?」
私の声が広い部屋に響きわたった。
「どういうことですか!? あなた、私のこと嫌いでしょう!? だから婚約も破棄して追放までして……。そもそも私をゼノンと強制結婚させたの、あなたじゃないですか!!」
「あぁ、だが状況が変わった。お前はやはり王と結婚せねばならん存在のようだ。お前を追放した途端、国に災いが降りかかったのだ。だから──仕方ないからお前と結婚をしてやる。だが俺の正妃はエスターニャだ。お前は私たちが幸せになるための道具として、この城の地下で永遠にこの国の繁栄を願って暮らすのだ」
「なっ……」
最悪のクズだわ、この男……!!
勝手に召喚して勝手に追放して勝手に別の男と結婚させて、今度は離縁させてやっぱり自分と結婚?
しかも結婚したら地下に入れられるって……人生詰んだ……!!
「本来ならこの場で書面のみで終わらせたいが、王族の結婚は大司教立会いの下での結婚の儀式が必要だからな。大司教には知らせを送った。今夜、結婚の儀式を執り行う」
「すぐにゼノンが来てくれるわ」
あの人なら、必ず。
私を取り返しに来てくれる。
私が言うと、国王は何がおかしいのか大声で笑い出した。
「あっはっはっはっはっはっは!!!! あの何にも関心を示すことのない無感情な男が、お前みたいな可愛げの欠片もない女を? 笑わせてくれる。とんだ妄想癖だ。だが、仮に来たとして、あいつではお前を助けることなどできん」
自信満々にそう言うと、国王は懐から黄金の印璽を取り出した。
「俺にはこの封制印があるからな」
「!!」
「結婚の儀式で使わねばならんからな。この箱に入れておこう」
国王はそれを謁見の間最奥の祭壇に置いてある小さな小箱へと入れると、ニヤリと笑った。
「お前には開けられんぞ。開けられるのは、この私だけだ。そういう魔法がかかっている。あぁそうだ。離縁の書類はさっき別室で書いて印を押しておいた。これでお前は、独り身だ」
「っ……」
私がもう……ゼノンの妻じゃ……ない?
途端に降りかかる喪失感がずしんと身体を重くする。
そんな私を見て国王は楽しそうに笑うと、私の髪を掴み上げ強制的に自分の方へと顔を向かせた。
「仮にも国王の妻がそんなみすぼらしい恰好では示しがつかんからな。特別にドレスを用意した。精々今夜だけ束の間のプリンセスを演じるがいい。おいそこの!! こいつを部屋に連れて行って、侍女に支度をさせるように伝えろ!! 私は、愛しのエスターニャ成分を吸収して、すぐに支度をする」
そう騎士に指示を出すと、国王は謁見の間から出ていった。
「……きも」
何がエスターニャ成分吸収よ。
私だってゼノン成分吸収したいわ。
「千奈様、大丈夫ですか?」
「え、えぇ。大丈夫です」
国王の姿が消えた瞬間、傍に立っていた騎士が心配そうに私を床から立ち上がらせてくれた。
「申し訳ありません……何もできず……」
「あなた、国王派じゃないの?」
ずいぶん同情的に見えるけれど、敵ではないのかしら?
「皆、思いは同じです。国王の浪費と政治不信で、国は破綻し、国民は生活が成り立たない状態です。貴族の生活にも影響が出始めているとも聞きますし、今の陛下を慕う者はおそらく……。ですが皆、封制印を恐れて何もできません。あれでもし、一族郎党の処刑をする書類なんかに印を押されたら……」
持つ者以外は決定を覆すことができないという恐ろしい道具、か。
それで皆を縛り付けている、ってことね。
「何もできない我らを、お許しください」
「……大丈夫。きっと、なんとかなる。きっと……」
騎士に連れられながら、ちらりと先ほど封制印が入れられた小箱に視線を向ける。
確か、これがあるからゼノンも逆らうことができないのよね。
裏を返せば、あれがあれば……。
でもどうしたら……箱には魔法がかかっているというし……。
……そうだわ……!! あれならもしかしたら……。
一つの策を思いついた私は、騎士に支えられながら歩き出す。
あいつの思い通りにさせてたまるもんですか……!!
闘志を燃やしながら、私は謁見の間を後にした。
「お綺麗ですわ、千奈様」
「えぇとっても。陛下のお嫁様になるのがもったいないくらい」
侍女たちが私を見てにっこり微笑む。
国王のことを誰も好きじゃないというのは本当みたいで、私は侍女に支度をしてもらっている間、ずっと彼女らに謝罪の言葉と国王がいかにひどい奴かを延々聞かされた。
そして出来上がったのが、嘘のようにきれいになった私だ。
ピカピカに磨き上げられた肌。
綺麗に結われた髪。
キラキラ輝くアクセサリーに、美しい純白のドレス。
あぁ……初めてのウェディングドレスが、まさかあいつとの結婚できることになるだなんて……。
ゼノンとの結婚式だったならよかったのに……。
そんなことを考えていても仕方がない。
私は、しっかりとあの策を遂行させないと……。
一応婚約者だった時に、結婚式の作法は教わった。
まず新婦が封制印の入った箱の前で新郎を待つ。
そして新郎が登場して、大司教の書いた結婚証明の紙に二人でサインをし、国王──新郎が封制印でそれに印を押す。
これで結婚の儀となるのだ。
後は気分で口付けたりするんだろうが、幸い国王は私を嫌っているから、その心配はないだろう。
新郎を待っている間がチャンスだ。
大司教はいるだろうけれど、国民にも貴族にも使用人や騎士にも人気のない国王だ。
きっと彼も、見て見ぬふりをしてくれる、と信じよう。
「皆さんありがとうございます。今日で、あの国王を終わらせてみせます。だから、信じて待っていてください」
私はそう言うと、騎士と共に謁見の間へと再び向かった。
***
だだっ広い謁見の間には、一番奥の祭壇の向こうに、大司教のみが神妙な面持ちで立っていた。
「千奈様」
「お久しぶりです、大司教様」
私を召喚した時以来だ。彼を見たのは。
「千奈様。本当に、申し訳ありませんでした……。私が召喚してしまったばかりにこのような……」
「謝罪はもういいです。もう、どうにもならないことなんだから。それよりも、今を打開することが先決です」
冷たく突き放してしまったようだけれど、これでも優しい方だ。
命令とはいえ、私はこの人に連れ攫われたのだから。
「大司教様。今から私がすること、黙っていてください」
「え?」
「お願い」
何も話していないのだ。
お願いと言われて首も縦に振りづらいだろう。
それでも真剣に見上げれば、大司教様は意を決したように、ゆっくりと頷いた。
「千奈様、この国を、どうぞよろしくお願いします……!!」
「!! はいっ──!!」
そして私は、祭壇の上に無造作に置かれた封制印の入った箱に触れた。
お願い開いて……!!
そう願いながらその蓋を開けようと力を込める──すると、箱は一瞬だけ淡い光を放ち、開かないと言われていた箱が開いた──。
「やった……!!」
やっぱり思った通り。
夢の中の人──ゼノンのお母さんが言った中和の力。
それならば魔法も解けるんじゃあないか。そう考えたのだ。
「重い……」
そして私は、ずっしりと重たいその金の印璽を、私はすぐにドレスの胸元へと隠した。
「今のは……。……そうか……やはりあなたは特別な方だった……」
そう驚きと恍惚交じりにつぶやいた大司教に、私は言った。
「特別? 普通の会社員でしたよ? 幼い二人を養わなくちゃいけない立場の」
「!!」
「あなたが国王に言われて強制召喚したのは、普通の、家族のいる、人間だったんです。それだけは忘れないでくださいね」
「はい……本当に、申し訳ありませんでした……!!」
そう言って頭を下げた大司教に、私はもう、何も言わなかった。
そして────。
バンッ!!
荒々しくドアが開け放たれ、煌びやかに着飾った国王が姿を現した。
花嫁以上に豪華な衣装。
ふんだんに使われた宝石。
目に優しくない。
そんなキラキラ陛下は、私を見てからふん、と鼻を鳴らした。
「衣装のおかげか、幾分マシに見えるな。これならば、調印後のキスもしてやってもいいぞ?」
もう黙ってぇぇええええ!!
殴りかかりそうになるのをぐっと堪え、私はにっこりと微笑んだ。
「黙れクソ野郎」
ぁ、ぐっと堪えられなかった。口が。
「チッ、衣装が変わっても可愛げのない……。大司教!! 書類を!!」
「は、はいっ!!」
急いで結婚証明書に証明分と自分のサインを入れていく大司教。
あぁでもちょっと待って。
ゼノンが来なきゃ、いくら印璽を盗んでも、無理じゃない?
証明書に私がサインを書き終わったら最後、印璽を使うからバレてしまう。
まずい。まずいぞ。
どうしよう……。
ゼノン速く来てぇぇぇえ!!
「ほら、次はお前だ」
心の中で祈っている間にも、今度は国王がサラサラとサインを書き終えてしまった。
そんな……。
ペンを持つ手が震える。
羊皮紙にペンの先を押し付け、震える手でゆっくりと自分の名前を書き始めた、その時だった──。
ドゴォオオオオオオオオン──!!
「何だ!?」
大きな地鳴りと共に、城内が騒がしくなった。
そして──バンッ!!
「千奈!!」
重い扉をけ破って、会いたかった人が、私の瞳に映った。
部屋に突撃してきたのは、ゼノン。そして、フランさん達城に住む魔族の皆。
それを見て国王があざ笑うかのように鼻で笑った。
「ふん。化け物たちが総出で……。町側の門の封印が解けていたと報告で聞いたが、こそこそと外に出おって……」
「私の妻は返してもらう」
鋭い瞳で睨みつけると、ゼノンは私の方へとその右手を突き出した。
すると突き出された右手からシュルシュルと音を立てて黒い霧が飛び出し、私の身体にまとわりつくと私を攫い、ゼノンのもとへと届けた。
「千奈!!」
「ゼノン……!!」
ぎゅっと抱きしめられると、そのぬくもりが、その匂いが、ひどく懐かしく感じて安心感をもたらした。
少し離れていただけだというのに、不思議なものだ。
「なにもされていないか?」
「はい、大丈夫です」
「するわけないだろうこのちんちくりんなんぞに」
ちんっ!?
そりゃあのボンキュッボンな恋人に比べたら皆ちんちくりんよ!?
「うちの妻が世話になったな。連れて帰らせてもらう」
「ふん。うちの妻? お前たちの離縁手続きは終えている。もうお前たちは夫婦ではない」
「何?」
そうだ……。
私とゼノンはもう、夫婦でも何でもないんだ。
婚約者でも、恋人でも……。
それらすべてをすっ飛ばして夫婦になってしまっていたから、それが無くなったとたん、自分とゼノンを繋ぐものが何もなくなった気がして、私は思わず両手をぎゅっと握った。
「そうか……」
ゼノンは好都合だと思っただろうか?
夫婦となる必要が無くなって、どう思っただろう?
考え出すと止まらなくなって、ゼノンの顔を見ることができない。
すると──。
「なら、私は恋人からあらためて始める権利を得た、ということだな?」
「へ?」
思わず顔を上げると、にやりと微笑むゼノンの顔。
陰キャだ陰キャだと思っていたのに何でそこだけポジティブなの!?
それでも心がぽかぽかと温かいのは、ゼノンの思いが嬉しかったから。
「千奈。私と、恋人から始めさせてもらえるだろうか?」
「!! っ、はいっ!!」
たまらなくなった私がゼノンの腕に抱き着けば、もう片方の腕が伸びて私の頭を優しく撫でた。
「っ、貴様……っ!! ふんっ、だがサインは結婚証明書に書き終わっている。俺が封制印で調印すれば、千奈は俺のものだ!! 封制印のないお前には、もはや何もできん!! あっはっはっはっはっ!!」
「くっ……」
悔し気に顔をゆがめるゼノンに、私は彼の腕から身を離すと、「これのことですか?」とにっこりと笑って胸元に手を突っ込んだ。
「なっ、せ、千奈!? 何を──っ、それは……!!」
「何っ……だと……!?」
顔を真っ赤にしてそれを見ていたゼノンも国王も、取り出した金の印璽を見て目を大きく見開いた。
「なぜ印璽を貴様が!? あの箱は俺以外には開けられないはず……!!」
「私の力は中和の力。魔法の力を中和させて開けたんです。ゼノン、どうぞ。これを持つのは、あなたがふさわしい」
そう言ってゼノンに印璽を手渡すと、ゼノンはそれを大切に受け取り、泣きそうな顔で「ありがとう」と言った。
「印璽がこちらの手に渡ったならば、何も恐れるものはない。徹底的にやらせてもらおう」
ゼノンは言うと、私を助けた時のように黒い霧を出現させ、呆然と立ち尽くす国王の身体を縛り上げた。
「!? くっ、は、離せ!! 何だこれは!! この化け物めが!! 俺はこの国の王だぞ!! こんなことをして、ただで済むと……っ、騎士!! 騎士は何をしている!!」
「騎士は来ない」
「は?」
そういえばこれだけ魔族が入り込んでこれだけ騒いでいるのに、騎士の姿がない。
一体どうして……。
「見てみるがいい」
そう冷たく言うと、ゼノンは霧を操ってテラスの窓を開け、国王を連れ出した。
「!! これは……!!」
私も一緒にテラスの外を覗いて言葉を失った。
だってそこには、たくさんの国民、いや、国民だけじゃない。
使用人や騎士達、なんと宰相までもがこちらを見上げ、武器を掲げているのだから。
「国民の……反乱?」
「あぁ。国民も皆、国王の退位を求めている」
私のつぶやきにゼノンが頷き、私はごくりと喉を鳴らした。
我慢の限界、だったのだろう。
国民も、同じ場所にいた使用人や騎士、宰相も。
これが、今までさんざん好き勝手してきた結果だ。
「退位の書類と調印は私がしておこう。お前は『ため息の塔』で、恋人と一生を送れ。安心しろ。あの下品な女は先に騎士達が『ため息の塔』へ送ってくれた」
そう言うと黒い霧に拘束された国王を、フランさんが軽々と担ぎ上げた。
「フランさん!?」
「ホブゴブリンは力持ちだからな。フラン、後を頼んだ」
「かしこまりました」
そう言うとフランさんは、米俵を担ぐが如く国王を担いで、謁見の間から出ていった。
国王が何やら大声で喚いていたけれど、フランさんは立ち止まることなく、『ため息の塔』へと向かったようだった。
終わったんだ……無事に……。
「ひゃっ……」
「っと、大丈夫か?」
安心して力が抜けて崩れ落ちそうになる私を、ゼノンが支える。
「だ、大丈夫、です。ありがとうございます、ゼノン。助けに来てくれて……。皆も、ありがとうございます」
そう後ろに控える魔族たちにもお礼を言えば、皆嬉しそうに笑ってくれた。
「最終的にうまくいったのは、君のおかげだ。感謝する。さて、彼らにも、話をすべきだな」
ゼノンは私の肩を抱いたまま、テラスへと進み出た。
そして──。
「国王は強制退位とする!! 皆、これまで悪政によく耐えた!! これからの生活に不安もあるだろう。だが、苦しみは終わりだ!! これからは新しい国を、ともに作っていこう!! 私は人も、魔族も、皆を等しく守ると誓う!! 人間界は滅び、これよりこの世界は、人魔界となることを宣言する!!」
ゼノンの宣言に、人も、魔族も、歓喜の声を上げた。
誰も、反対する者はいなかった。
皆、ここの魔族は優しいということを知っているから。
そしてゼノンは私と見て、いたずらっぽく言った。
「人間界を滅ぼしてみたが、お気に召したかな?」
「~~~~~っ、うちの旦那様、最高ですっ!!」
私はまたたまらなくなって、今度はゼノンの身体に抱き着いた。
こうして人間界は滅びをむかえた。
反乱からすぐにゼノンが国王となり、人魔界は人と魔族が協力し合って活気を取り戻していった。
強制離縁されてしまった私は、ゼノンと婚約をし、一度目では与えられなかった婚約期間中だ。
もう夫婦ではないのは少し寂しいけれど、婚約というお付き合いする時間ができたのは嬉しいことだ。
とはいえ、ゼノンも忙しくてなかなか二人きりで出かけたりはできないのだけれど……。
「ゼノン? 何をしているんですか?」
珍しく広間でゆったりしているのかと思えば、ソファに座り何やら古そうな鏡を持ってクロスで磨いているゼノン。
「ん? あぁ、ちょうどいいところに来た。千奈、ここへ」
僅かに鏡から顔を上げて手招きをするゼノンに、首をかしげながらも彼の隣に座った。
「これは?」
ところどころ曇りとくすみがこびりついていてずいぶん古そうな鏡だけれど……。
「これは宝物庫にある国の宝だ」
「ほうもつ……って、そんなものなんでここに持ち出してるんですか!?」
宝物庫のものってむやみに持ち出しちゃいけないんじゃ!?
「大丈夫だ。それに、これは必要なものだったからな。ちゃんと宰相にも話してあるし、何より、母の意思だ」
「お母さんの?」
「あぁ。昨夜夢の中に出てきて、これのことを教えてくれた」
ゼノンのお母さんが、これを?
これはいったい──。
「これを見て、弟たちのことを思い浮かべてみなさい」
「弟たちのことを?」
よくわからないけれど、何かあるのだろう。
私は離れ離れになった弟達、千歳と千都のことを思った。
二人のことを考えない日なんてない。
いくらこの世界で生きていく決意を固めたとはいえ、彼らをおいて突然いなくなってしまった罪悪感や、そんな自分がここで幸せになって良いのかという迷いもある。
色々な思いを巡らせながら二人の記憶をたどっていると──。
「──姉ちゃん?」
「!?」
え…………?
古びた鏡を見て、私は愕然とした。
だってそこには、私の上の弟──千歳が映っていたのだから。
「なんで? え、ちょ、千都ー!! こっち来い!! 早く!!」
「何だよ兄ちゃん朝っぱらからそんな──」
「良いから早く!!」
バタバタとあわただしい音がして、移りこんだもう一人の少年。
下の弟の千都だ。
何で?
一体どうして……。
「姉ちゃん今どこにいるんだよ!? 突然いなくなって……何で……っ」
千歳と千都の目から止めどなく零れ落ちる雫に、私も鼻の奥がツンとなる。
「ごめっ……ごめんね、突然いなくなって……っ」
何と説明したらいいのかわからない。
説明するにはあまりにファンタジーで、どうすればいいのかわからなかった。
「私が説明しよう」
「ゼノン……」
混乱する私の手にそっと添えられた大きな手。
いつも私に安心をくれる手だ。
──それからゼノンは、二人に丁寧に説明をしてくれた。
そのうえで、彼は弟たちをまっすぐ見つめてこう問うた。
「こちらの世界からそちらに行く魔法は確立されていない。だが、大司教に君たち二人をこちらへ飛ばすことは可能だ。どうする?」──と。
そんなこと、考えたこともなかった。
また一緒に暮らすことができたなら、と考えたことはあるけれど、夢のまた夢だと思っていたから。
だけど、二人には二人の暮らしがある。
それも私はよくわかっている。
こっちにはゲームもないし、仲のいい友達もいない。
テレビもないし、携帯だって使えない。
年頃の子どもに迫るにしては大きすぎる選択だと思う。
だけど──。
「僕、姉ちゃんのところが良い!!」
そう言いだしたのは、下の千都だった。
「俺も。そっちに行く」
続いて千歳もそう言って、ニカッと笑った。
「でも……いいの? 住み慣れた世界から、こっちになんて……。友達だっているでしょう?」
選ばせておいてなんだが、彼らが無理していないだろうか。
それだけが私の中で気がかりだった。
すると二人とも、なんてことはないように笑って言った。
「そりゃ友達いるけどさ、このまま姉ちゃんがいない方が嫌だ」
「うん。もう家族がいなくなるのは嫌なんだ」
「千歳……千都……」
頭をハンマーで殴られたように感じた。
そうだ。
この子たちは幼い頃から立て続けに家族を失ってきたじゃないか。
父と母、おばあちゃん。そして私。
これ以上、家族を失うのは嫌だ。
そんな叫びに、私には聞こえた。
そして──。
***
「姉ちゃん!!」
「千歳!! 千都!!」
小さな二つの身体を優しく包み込む。
暖かい二つのぬくもりの鼓動を感じる。
あれからすぐに大司教は千歳を召喚してくれた。
二人の子どもが施設から消えたことで、あちらの世界ではきっと大騒動になっているだろうけれど、いつかきっとそれも落ち着く。
一応施設の人に容疑がかからないように、二人には自分の筆跡で手紙を残させた。
自分の意思で出ていくのだということ。
施設の皆さんへの感謝。
そして今まで仲良くしてくれた友達への感謝。
伝えたいことはきっと、全て詰め込んだはずだ。