「この生徒具合悪いみたいなので休ませてあげて下さい。何なら早退でも構いません。担任には僕から連絡しておきます」

 室内に向かって数多が勝手に声をかける。否定しようとしたが、保健室の先生も休んでいる生徒も誰もいないようだった。

「ほら、いないですし帰りま……」

「まぁいいや、そこで寝ようか」

 前に押し出され、またしても強引にベッドに寝かせられる。仕方ないので渋々仰向けになると、待ってましたと言わんばかりに毛布をかけられる。

「よし、それじゃあおやすみ」

 安心したような笑顔だった。美紀は不安になって抗議した。

「眠いごときで休むなんてサボりです」

「不眠も立派な体調不良だよ。あのまま無理してたら倒れてたし。何も気にしないで眠ればいいんだよ」

 ぽんぽんと毛布の上から足を叩かれ、美紀は項垂れるように脱力する。

「……すみません、迷惑かけて」

「迷惑じゃないよ。僕が勝手にしたことだから。あ、でも不満はあるかな」

 美紀を見下ろしたせいで落ちてきた髪を邪魔そうにかき上げながら、数多はいつもと違う、素に近い感じで言った。

「先生を避けておきながら、教師もののエロ漫画なんか読むんだね。最上さんがそんな意地悪な生徒だとは思わなかったよ」

 その言い草は心外だった。教師らしからぬ自己中心的な捉え方だ。ムッとした美紀は上体を起こし、少々冷たい口調で言い返した。

「皆が皆、恋愛漫画が好きだからといって恋愛がしたいとは限りません。現実とフィクションを混同させないで下さい。あとあの漫画はエロではありませんし、たとえエロだとしても、先月誕生日で18歳を迎えているので特に問題ないですよね」

 思ったよりまくし立てたからか、数多は目を丸くした。それからおかしそうに笑い、手を頭にやった。

「ごめんごめん、冗談のつもりだったんだけど。最上さんの言う通りだよ」

 冗談にしてはやけに私情がこもっていた気がするが。

「その漫画、そんなに面白いんだ?」

「いえ、試し読みしただけで」

「あ、じゃあそういうの読むのも初めて?」

「はい、広告で流れてきただけなので」

「なんだ、なら良かった」

「良かった?」

 何を安心しているのか分からなかった。

「いやだって、真面目な最上さんがそういうの大好きだったらどうしようって。勿論現実とフィクションは違うけど、でもちょっと複雑っていうか」

「息抜きが大事と言ったのは先生ですよね」

「それはそうなんだけど」

「それに私はそこまで真面目じゃないです」

「え?」

 つい心の底にあった気持ちを吐き出していた。眠気のせいで制御が効かなくなっているかもしれない。それでも尚、数多の困惑した表情が直視できなくて、美紀は再びベッドに倒れた。

「真面目なつもり、だったんですけど。真面目だから大丈夫だって、無理矢理自分に言い聞かせてきただけなんだと思います。その証拠に、既に勉強に嫌気が差し始めています」

 この程度の勉強すらできないくせに。

「本当は皆と親しくしたいのに、勉強をサボって遊んだりしてみたいのに、真面目キャラなのを言い訳にして逃げています」

 同級生とすら話せないくせに。
 先生になろうだなんて、馬鹿げている。薄ら笑いを浮かべて白い天井を見つめる。

「散々逃げてきたから、私は不真面目です。先生にわざわざ教わっていたのも、本当は勉強より、話し相手が欲しかったからで──」

 とうとう言ってしまった、最低なことを。先生はさぞ悲しい顔をしているだろう。見るのが怖い。口をつぐみ、逃げるように上を向き続ける。
 すると、穏やかな声が降ってきた。

「僕もだよ」

 思わず見ると、数多は優しく目を細め、向こうの窓を眺めていた。もしかしたら先生も今、こちらの目が見られないのかもしれない。気を遣っているわけではなく、本当に。美紀は親近感を覚え、縋るように数多を見つめた。
 ──直後、目を合わせられない本当の理由を真正面から突き付けられることになった。

「僕、美紀さんが好きなんだよね」

 一瞬のことで理解ができなかった。名前呼び、と思ったが、今はそれどころではなかった。

「あ、ライクも含めたラブね。生徒としても恋愛対象としても好きなんだ」

 理解が追いつかないまま、寝ているにもかかわらず、地面がぐにゃりと揺れた。眠気のせいか衝撃のせいか判断がつかなかった。そんな美紀をよそに、数多は饒舌に語った。

「美紀さんが教えを乞うてきた時、嬉しかったよ。この子は本当に真面目なんだなって。そして思わずにはいられなかった。僕がこの子をめちゃくちゃに甘やかしてあげたいってね」

 めちゃくちゃな思考回路だった。

「美紀さんが孤独やしがらみの中で苦しみ、愛や娯楽に飢えていることは一目瞭然だった。だから僕がそれらを与えてあげようと決意した。なのに頑なに遠慮する。本当は甘えたいのに、素直に言えなくて、倒れそうになるまで頑張ってしまう。そんな不器用さにますますやられた。率直に言えば興奮した」

 一向に目が合わない。遠くを見つめたまま、身体は微動だにしない。口だけがやけに動いている。

「真面目な子の弱い部分が見え隠れするのってめちゃくちゃ興奮するんだよね。全部剥ぎ取って丸裸にしたくなる。手突っ込んでぐちゃぐちゃにかき混ぜたくなる。気持ち良いことしか考えられないくらい、何なら自我が無くなるくらい。正直エロ漫画の広告に釣られてるところで駄目だった。今の独白も駄目だ。暴発しそうなんだよずっと」

 言葉と裏腹に穏やかな表情をしている。完全に開き直っているようだ。

「もっと甘えて、もっと駄目になってほしい。一人ぼっちでいい、僕だけと話しててほしい。不真面目でいい、それくらいが丁度いい。僕と一緒に堕ちるところまで堕ちてほしい」 

「先生、じゃないですよね」

 一応聞いてみた。別人ですよね、という意味だった。

「先生じゃないよ。数多一成だよ」

 そういうことではない。いや、そういうことなのかもしれなかった。これはいち教師ではなく、数多一成という人間の本性だ。

「ねぇ、僕が美紀さんって呼ぶから、美紀さんは一成さんって呼んでくれる?」

 美紀は黙り込んだ。呼びたくないというよりは、激しい眠気に襲われて何も喋れなかった。これが現実かどうかも確信は持てなかった。

「……うん、嫌だよね」

 数多は一人で勝手に納得すると、仕切りカーテンに手をかけた。

「今の、教育委員会に言っていいよ」

 開き直るにも程がある。

「言ったら僕は認める。美紀さんを盗撮した写真も出してクビにしてもらう」

 盗撮したんですか、そう聞きたかったが意識が朦朧としていた。

「あ、盗撮って言っても学校の何気ない様子だから。卒業アルバムと変わりないから」

 何も反省していないような弁明を付け加えてから、数多はようやく美紀を見た。穏やかというよりは、全てを諦めたような悲しげな表情だった。

「どうするかは美紀さん次第だよ。ただしどうなっても、僕が美紀さんを好きなことに変わりはないから」

 ここまで言われても抱くのは、どうしてここまで想ってくれるのだろう、という疑問のみだった。答えを思いつく前に、美紀は完全に寝落ちした。
 不思議と気持ち良く眠りにつけたのは、やはり変わっているからだろうか。