時夫は家に帰ると、玄関に掛かっている鏡の前に立った。時夫にとって誰がどのようにしてここに掛けたかなどもうどうでもよくなった。時夫は鏡に手を差しのばした。鏡の表面は時夫の手がそれ以上進むのをかたくなに拒んだ。時夫は手のひらで鏡の表面を軽く数回擦った。しばらくの間鏡の表面に靄が現れ、今まで写っていた時夫の顔をしばらく遮った。やがて靄が消えてくると時夫の微笑んだ顔が現れてきた。
電話の呼び出し音が突然鳴り出した。受話器を上げると、遠い声が聞こえてきた。
「時夫かい。玄関に掛けてあった鏡、気に入ったかい。こちらの骨董店で偶然見つけてどうしても欲しくなって買ったんだよ。警備保障の人に電話して掛けてもらったんだよ。もし君が留守の時掛けられたとしたら驚くと思って電話したんだけれど、ちょっと遅かったかな。じゃ、この国際電話の料金馬鹿にならないのでこれで切るよ」
この家の持ち主である友人であった。時夫にとって鏡の出所が分かった事への安心感より、鏡に纏わる神秘が消えてしまったことへの落胆の方が強かった。彼は受話器を置くと鏡の方へ目を向けた。そのとき同時に彼の目に入ってきた映像は彼を驚愕させた。何と鏡の前に先ほど国際電話をかけてきた彼の友人である勇が立っていたのである。彼は鏡の前に立ちながら彼の方を、笑みを浮かべながらじっと見つめていた。
「勇、君はさっき国際電話をかけてきたばかりじゃないか。どうしていまここにいるんだよ」時夫は声を震わせながら話した。
「ここにある鏡のお陰さ」勇は鏡を指さしながら嬉しそうに話し続けた。
「この鏡のお陰で僕は一瞬のうちにロンドンからここに来られたんだ」
「どうゆうことなんだい」時夫は不審そうに言った。
「まあ、論より証拠だ。僕の後について来たまえ」
勇は鏡の方へ歩いていった。彼は鏡の近くまで来ると手のひらを鏡の表面につけて、鏡いっぱいの大きな円を描いた。そうすると彼は瞬く間に鏡の中に吸い込まれていった。瞬間の出来事に驚いた時夫は鏡の近くまで走り寄った。鏡の面前に立ったとき写っているのは時夫ではなく勇であった。鏡に映っている勇は盛んに口を動かしているのであるが、時夫には勇の言っていることが全く聞こえなかった。まもなく勇は手のひらをガラス面につけて大きな円を描きはじめた。勇と同じ動作をせよという合図と咄嗟に感じ取った時夫はすぐに自分の手のひらをガラス面につけて大きな円を描いた。瞬く間に時夫は自分がガラスに吸い込まれていくのを感じた。時夫は気がついたときにはもう勇の脇に立っていた。時夫の面前には玄関に掛けてあるのと同じ鏡があった。その鏡には玄関の鏡が掛かっている壁の反対側の壁が写っていた。時夫は勇の方を見た。勇も時夫と同じようにその鏡を見つめていた。勇は鏡を見つめながら話し始めた。
「ここは何処だか分かるかい。ここはロンドンのある骨董店の二階なんだ。この店の二階には鏡ばかりおいてあるんだ。すごいだろう。僕が君に貸してあるあの家の玄関に掛かっている鏡はこの鏡と同じものなんだ。全く同じ鏡が2つ並んで置いてあって、その鏡に僕はすごく引かれたんだ。僕は片方の鏡に映った自分の顔をじっと見ていたんだ。しばらくその鏡を見ている間に突然僕はもの凄い衝撃を経験することになってしまったんだ。そりゃ本当に驚いたよ。その鏡に映っていた僕が突然消えてしまったんだからね。こんな経験はもちろん生まれて初めてだから体中が震えてしばらく止まらなかったよ。やがて落ち着いてきたときその鏡に映っているものをよく見ると、そこに写っているものは僕の後ろに写っているものではないことに気がついたよ。それで僕はこの鏡は僕だけを写らなくしたのではなく、全く違うものを写していることに気がついたんだ。それで僕は鏡の反対側をよく見てみた。それでもう一つの同じような鏡の反対側を写していることに気がついたんだよ。それでもう一つの鏡を覗いてみると先ほどの鏡の反対側を写していることが分かったんだよ。このとき僕は、これは何と奇妙で面白い鏡だと思ったんだ。それでこの鏡がどうしても欲しくなってしまった。僕は早速店員に値段を聞いてみた。この鏡は2つで組になっていて、あまりにも高すぎるんだよ。でも僕はどうしても欲しくて、片方だけ売ってくれないかと店員にしつこく頼んだ。店員は僕のしつこさにやがて折れて、片方だけを売ってくれた。念願の鏡が手には入ったけれども僕の貯金のほとんどが消えてしまった」
時夫は気がついたようにまわりを見回した。確かに部屋一面に鏡が陳列してあった。世界中の様々な鏡が陳列されており、どれもこれも豪華な装飾が施されており、見るからに時夫にはとうてい買えそうもない鏡に見えた。外観だけを見ると時夫と勇が今見つめている鏡が一番安そうに見えた。勇は急に時夫の方に顔を向けしばらく時夫の顔を見つめていたが、再び鏡の方を覗き込みながら話し始めた。
「この骨董店は老夫婦二人で経営しているんだ。二人ともいつも一階にいて、二階にいることはめったにないんだ。だから開店前に掃除するときとか、二階で欲しい鏡を見つけた客が呼びつけたときしか二階に上がってこないんだ。今日僕がこの店に入ったとき、二人とも客の応対に忙しかったらしく僕が店に入って二階に上がったことにまるっきり気がついてないらしいんだ。ということで今日は君と久しぶりに会えたことだから君の家、つまり僕が君に貸している家に戻ってゆっくり話したいと思うんだがいいかい」
「もちろんだよ。今日はゆっくりと僕の家に泊まっていけよ。でも、僕の家にというのはおかしいね。とにかく、会社の同僚に高価なコーヒー豆をもらったんだ。今日は美味しいコーヒーを入れられそうだから、コーヒーを飲みながらゆっくりと話そうよ」
「いいかい。あの要領で戻るよ」
勇は鏡の前に立ち、右の手のひらを鏡の面につけて大きな円を描いた。瞬く間に勇は鏡の中に吸い込まれていった。時夫も同じように右の手のひらを鏡の面につけて大きな円を描いた。そして時夫も鏡の中に吸い込まれていった。

時夫と勇はダイニングルームのテーブルについていた。部屋中にコーヒーメーカーから漂ってくるコーヒーの香りがあふれていた。時夫がコーヒーカップにコーヒーを注ぐ音が静かな夜の中で響いた。コーヒーを注ぎ終わると時夫は勇の方を一瞬見た後コーヒーカップに手を伸ばしながら静かに話し始めた。
「実はあの鏡がここに送られてきた日のことなんだが、僕はあの鏡の中に吸い込まれたんだよ。吸い込まれたところは全くの暗闇の世界でやがて僕はその暗闇の世界を歩き回ったんだよ。やっとのことで光を見つけてそれに向かって走って行ったんだけれどその光のもとは同じ鏡だったんだ。でもその鏡を通ってどうにかここに戻れたんだ。僕は最初それが夢だと思ったんだ。でも今日君とこの鏡の経験をしてあれも夢でなく現実だったんじゃないかと思ったんだ」
 時夫は話すのを少し止めてからコーヒーカップを口元に持ってきてコーヒーを一口すすった。コーヒーカップをテーブルに置いてから勇の方を見つめた。勇はテーブルに置かれた自分のコーヒーカップをじっと見つめながら唇を震わせていた。
「どうしたんだい」
「今君が話したことだよ。そのことが本当だとするならば、それは恐ろしいことだよ」
「それはどういうことなんだい。何が恐ろしいと言うんだい」
「今君が話したことだけれど、今初めて聞いたことではないんだよ」
勇はそういうと鏡の方へ歩いていき、その鏡を裏返しにした。
「時夫、こっちに来て見てくれないか」
勇はその鏡の裏側を指さした。その鏡の裏側にはアルファベットの文字がびっしりと書かれていた。
「この文字は何語か知っているかい。実はラテン語なんだ。僕はラテン語なんてさっぱり分からないから、大学の時の英語の先生でラテン語もある程度詳しいと聞いていた教授の所へ行ったんだよ。そしてその教授の所へこの文字を全部写したものを持っていったんだ。その教授は最初の文章を少し読んだだけで非常に興味を持ってくれて、その文章を全部訳してくれると言ってくれたんだ。ほらこれが全文を訳したものなんだ」
勇は大学ノートを取り出して、時夫の前で開いた。
「ほら、これを読んで分かることは、この鏡の使い方なんだ。と言っても、ロンドンの骨董店にある鏡とこの鏡の間を瞬間移動した時の方法がこんなに長々と書かれているんだ。つまり僕がこの鏡の中に入っていったときにした身振りは僕が設定したものなんだけれど、瞬間移動のための設定についてだけにこんなに長い文章が書かれているんだよ。だから君が経験したことについては全く書かれていなかったし、もちろんそのことについて僕は初めて聞いたんだよ。それで僕は知りたいんだけれども」
「そう言われても僕は気がついたら鏡の中に入っていたらしく、どうして僕は鏡の中に入ったか覚えていないし、入ってからも出ようと必死だったから、ほとんど何も思い出せないんだ」

勇が鏡を通してロンドンへ帰ってしまった後、時夫は言い知れぬ沈黙の中に取り残された。一人になってしまうと今までのことがまるで夢の世界であったかのようになるのは不思議なことであった。時夫は再び鏡の前に立ってみたが普通の鏡であった。なんの変哲もなく時夫と時夫の背後にあるものを映していた。勇が教えてくれた方法で鏡の向こうに行ってみようという気にもなれずに鏡の前から離れていった。
 ベッドの上に横たわりながら勇との会話を思いめぐらしているうちに眠り込んでしまった。偏頭痛はなかった。例の夢も見ないでぐっすりと眠ることができた。快適な目覚めであった。