作家

数日後、哲雄はユカの言葉をかみしめながら、再びリハビリセンターへ向かった。辞めたいという気持ちは完全には消えていなかったが、どこかで「このままでは終われない」と感じていた。センターに到着すると、彼は患者と向き合う準備を整えるために自分なりの工夫を始めた。
「今日は焦らず、一歩一歩だ。」そう自分に言い聞かせ、まずは担当患者と雑談から始めることにした。無理にリハビリの話をするのではなく、相手の好きなことや興味のある話題を引き出そうと試みた。しかし、その日も患者はほとんど反応を見せず、冷たい態度を続けていた。内心、また失敗かと感じた哲雄だったが、ふとユカの言葉を思い出した。「焦る必要はない。何か一つでも新しいことを試してみよう。」そう考えた哲雄は、患者の趣味や過去の経験をもっと詳しく聞き出そうと決めた。翌日、彼は事前に患者の家族から情報を集め、かつて彼が熱中していた趣味である模型作りについて話しかけてみることにした。
「昔、模型作りをしていたと聞きました。今はどうですか?作るのはもうやめてしまったんですか?」哲雄がその質問を投げかけると、患者の目が一瞬光ったのを見逃さなかった。
「…ああ、そうだな。昔はよく作っていた。」初めて患者が自発的に話をした瞬間だった。哲雄はその反応に驚きつつ、さらに話を広げた。「もしよければ、また一緒に作ってみませんか?簡単なものから始めてもいいですし、僕も手伝います。」
それから数日、二人は模型作りを通じて少しずつ打ち解けていった。手を動かしながら、徐々に患者は自分の過去や今感じていることについても口を開くようになり、リハビリのセッションも少しずつ前進し始めた。センターの帰り道、哲雄はふと足を止め、空を見上げた。「やっと少し光が見えてきたかもしれない…。」彼はこれまでの苦しさを思い返しながら、少しずつ前に進むことの大切さを改めて感じていた。その夜、ユカにその日の出来事を報告した。彼女は微笑みながら「それでいいんだよ、哲雄さん。焦らずに少しずつで大丈夫。患者さんも、きっとあなたの誠意を感じてると思う。」と言った。哲雄は、まだ完全に自信を取り戻したわけではなかったが、確実に前進していることを感じていた。そして、この経験を通じて自分が成長していることにも気づき始めた。その後も、哲雄は患者との関係を少しずつ深め、仕事に対する自分のアプローチを見直しながら、日々の課題に取り組んでいった。まだ多くの挫折が待ち受けているかもしれないが、ユカと共にいることで、どんな困難にも立ち向かえるという自信が少しずつ芽生えていた。
哲雄は文学賞に応募したことをユカにだけ打ち明けていた。彼が選んだのは、かつての自分がリハビリの壁にぶつかり、絶望と再生の狭間で揺れる日々を描いた自伝的な短編小説だった。病院の静かな休憩室で、ユカにそのことを話すと、彼女は目を輝かせた。
「すごいね、哲雄さん!読んでみたいな、その小説」
「まだ結果も分からないし、見せるのはちょっと恥ずかしいんだけど…でも、ありがとう」
ユカは微笑みながら首を振った。「そんなことないよ。きっと哲雄さんならいい結果が出るはず。応援してるよ」
その言葉に少し励まされた哲雄は、リハビリの仕事に対する意識も少しずつ変わり始めた。患者たちとのコミュニケーションが再びうまくいき始め、彼の中で物語と現実が交差していくのを感じた。それから数週間後、哲雄はついに文学賞の結果が発表される日を迎えた。朝、仕事に行く前にメールを確認する手が震えた。鼓動が早まり、息苦しさを感じながら、画面を見つめる。
「結果は…」
メールには、文学賞の最終選考まで残ったという知らせがあった。受賞は逃したが、哲雄の作品が評価され、編集者から今後の可能性について話したいというオファーが来ていたのだ。彼はホッとしつつも、胸の奥で希望が芽生えるのを感じた。この小さな一歩が、彼の人生にとって大きな転機となるのかもしれない。哲雄はリハビリセンターを後にし、もう一度自分の執筆の未来を思い描いた。ユカにこの報告をしたときの彼女の反応が楽しみだった。