一号館三階、二年一組の教室にて。

 結局、小暮先生には勝利したが、ぼくら愛用のトランジスタメガホンは小暮先生により没収されてしまった。

 そんなわけで、ぼくは落ち込んでいた。

「ふっ、そう嘆くことはない。天然サウナの刑よりはマシだろうさ」

 そう徹は言ってくれたが、ぼくの気分は晴れない。

「だってさ、あそこまで分かち合ったのに没収するとか、普通ないじゃないか。
 しかもぼくらのメガホン、この学校の備品になるんだろう?
 どうしてこの学校の教師はそんな残酷なことができるのか、彼らの頭の中をのぞいてやりたいよ」

 はあ、とぼくは大きなため息をつくと、教室の床に座ってあぐらをかいた。
 徹もぼくに倣い、床に座ってあぐらをかく。
 環奈と茜の女性二人は互いに顔を見合わせてから、おしとやかに横座りで床に座った。

 ぼくらは教室後ろの窓際の場所に陣取っていたため、同級生たちの様子を知ることができた。

 無頓着な彼らはぼくらの姿が目に見えていないのか、大半の者は教室で好き放題に騒いでいた。
 一方、少数派ではあるが、ある者は勉学に励み、またある者は早弁のため、ガツガツと弁当箱の中身をかき込んでいた。

 我らが翔よ、頭を冷やせと言わんばかり、教室内に設置されたエアコンは、ただひたすら涼しげな風をぼくらに届けていた。

 ああ、これがぼくらの日常だ。なんの狂いもない、日常。
 そんな日常が、ぼくは愛おしい。

 そのとき、とある男子生徒がぼくらの前に現れた。

 何事かと、ぼくらは男子生徒――武田勇人(たけだゆうと)を見上げる。

「あのう……ちょっといいですかね」

 勇人は頼りなさげに右手を頭の後ろに当て、弱々しげな笑みでぼくらを見ていた。

 勇人の身長は徹には及ばないものの、それでも彼の身長は一七五センチメートルを超えている。
 長身といえば長身だろう。

 けれど徹とは違い、勇人は頼りなく、それに情けなかった。
 愉快な性格でもある勇人だが、ぼくは彼を見るたび、自分の影を見るようで、正直嫌だった。
 そんな勇人は同類であるぼくをからかいやすいと思ったのか、ふだんから彼はぼくをからかってくる。

 はっきり言えば、とてつもなく不快だ。

 唯一、勇人を好きだと思える点があるとするなら、凛々しい顔付きをしている彼が、まったく女子からモテないということだけだった。

 何を隠そう、ぼくもまったくモテない。

 もっとも、恋愛反対運動を世に広めるぼくがモテないのは当然の話だった。

「なんだね、勇人よ。そんな情けなさそうにして、どうしたというのだ。
 まさか、借金取りにでも追われているのか?」

 徹のいじりに対し、勇人は困惑した様子で「ああ、いえ……そうではないんですけど」と否定した。
 その後、勇人は意味ありげな視線をぼくに送ってきた。

 ぼくが眉をひそめて勇人を見返すと、勇人は「実はですね」と話してきた。

「翔さんに用件が……というのも、伝言があるんです」
「ぼくに伝言だって?」

 突然のことで、ぼくは大声を出してしまった。

 ぼくは咳払いをして床から立ち上がり、「誰からの伝言だ?」と勇人に訊いた。

 勇人はいやらしい笑みを浮かべながら、「天野遙香(あまのはるか)さんからの伝言ですよ。なんでも、屋上前で話がしたいとのことです。すでに彼女はそこで待っているそうなので、早めに行ってあげるといいですよ」と自分に課せられた使命を果たした。

 こうして勇人は自分の席に戻っていった。

 しばらくのあいだ、ぼくは身動きひとつせず、例の伝言について考えてみた。

 天野遙香――彼女は同級生であると同時に、大浦家の隣人である人物だ。
 肩まで伸びた黒髪、ぱっちりとした目に切れ長の唇が特徴的な女性、それが天野遙香さん。

 そんな彼女が人気の少ない場所でぼくと二人きりで話がしたいとは、一体どういうことなのか。

 いや、考えられることはひとつだけある。
 それは――。

「……告白、かな」

 不意に茜がつぶやいた。
 その瞬間、徹たちの目の色が変わり、彼らはゆらりと床から立ち上がった。

「そっか、告白か。
 翔くん、よかったね。急いで遙香ちゃんのところに行ってあげなよ。
 わたしたち、翔くんのことを見送ってあげるからさ。だから遙香ちゃんのところに行ってあげて。
 もっとも、それが最後の見送りになると思うけど……でも仕方がないよね、翔くん。
 わたしたちのことを裏切るんだから、仕方がないよね」

 恨みだらけの茜の言葉に、ぼくは身体を震わせた。

 そのとき、ぼくは誰かから両肩を強く押さえつけられた。
 振り向くと、それは環奈だった。

「いってらっしゃい、翔。二度と戻ってこないでね」

 環奈はぼくの肩から手を離すと、ぼくの背中を両手で押した。

 ぼくはよろけたが、すぐに徹たちのほうを振り返り、捨て犬のような目で彼らを見た。
 けれど、すでに環奈と茜はぼくのことを忘れているのか、二人で雑談を交わしていた。

「くぅん……」

 なんて声を出しているのかと自分を問い詰めたくなったが、今のぼくは捨て犬と同じだということに気付き、二度目の「くぅん……」は、より悲しみがこもったものとなった。

「翔」
「ワン!」

 どうやら、神は哀れなぼくを見捨てはしなかったようだ。

 ぼくは徹というご主人様を見つめる。
 喜んだのもつかの間、徹のトドメの一言がぼくに炸裂した。

「もうここにお前の居場所はない。だからどうか、翔……不幸せになれよ」
「キャンキャン!」

 ぼくは恥を捨て、大勢の同級生がいる前で犬の鳴き声を真似すると、教室から飛び出した。

 そうしてぼくは階段を上り、屋上前まで向かうのだった。