「帰んの?」

 私の真正面に座った彼につられて私も座る。
 
「どうだった?」

「え……?」

「それだよ、それ」

 彼が指しているのは私の手元にあるボーカル譜面。
 
「私、叩かれないですかね……あっちのファンに」

 先生には素直に不安を打ち明けた。
 
「もっと自信を持っていいよ。今回のカムバックもすごい良かった。ソロであれだけ上手くやれてるんだからもう立派なアーティストだよ」

 彼が担当プロデューサーで毎日顔を合わせていた頃とは空気感が違う。鋭かった眼差しや冷たかった表情も今では柔らかく暖かで、偽物の先生を見ている気分。
 しかし実際には、担当をしていた私にだけ厳しかったあの頃だって私以外の人が見ていた彼はこうだった。
 ようやく出逢えた本当の彼。
 こんなに褒めてもらえると思わなくて、嬉し恥ずかしいような……とてもムズムズする。

「先生、別人みたいですね」

「前は頑張って厳しくしてたからな」

 私の目を見て軽く微笑んだ。
 そんな優しい顔を見せられたら……

「リク先生……」

 私は何故か、無性に言いたくなった。
 先生とハル先輩の付き合いの長さを理解した上で冷静に考えたら言わない方がいいと思う私と、先生は私が男性に言い寄られていたらどういう反応を示してくれるのかと半分期待してしまう私と、行ったり来たり。

「どうした? 相談事?」

「同じ会社の先輩から付き合おうって言われて」

 先生は興味ありげに身を乗り出す。

「それ俺に言っていいの?」

「……はい、悩んでるので」

「じゃあ全然好きじゃないんじゃん。ユリぐらいの年の子だと顔かっこいいからって取り敢えず付き合っちゃう子もいる。だから悩んでる時点でそう好きじゃないでしょ」

「あと、付き合ってるうちに好きになるかもって、とりあえず付き合ってみる人いるじゃん
俺の考えだとユリはそれが向かないタイプ」

 伊達に4年も一緒にいない。この人は思ったよりも私のことをよくわかってる。
 人の好き嫌いがハッキリしていることも、一度好きか嫌いか判断したらそのあとなかなか変わることがないことも。

「あのっ、先生!」

 私が彼を呼ぶと被せるかのように彼が話し始めた。

「何年もほぼ毎日会ってたのに急に会わなくなったから、なんだか懐かしいよ。ユリの担当外れて最初の頃は練習生の方のビルじゃなくて間違えてこっちのビルに入っちゃったりしてさ……たまに用事でこっちに来た時も、ユリは今何してんのかなーって思ってた」

「えっ……?」

「本当は今日もユリと話したくて……仕事切り上げて来たんだ」

 心が大きく揺れ動く。
 
 どうしようもなく彼が好き。
 気持ちを再確認させられたらもう黙ってられない。
 だけどこんな所で気持ちを伝えたら非常識な子だと思われちゃう……
 無言でこの場から立ち去ろうとテーブルに置いた携帯と資料をガバッと手につかんで、椅子が倒れる勢いで立ち上がり彼の目も見ずに「お疲れ様です」と言ってドアの方に向かう。
 まるで去年の秋に同じ場所で先生と大喧嘩した時みたい。別に私は怒ってるわけじゃないのに。
 ふと、彼に強引に私の腕を掴まれた。

 振り返った時にはもう涙がボロボロと溢れ出していて彼は焦った表情を見せる。

「どうした?」

 彼に一歩、歩み寄り彼を抱きしめた。

 あぁ、どうしよう。

 せっかく保ってきた適度な距離も全部壊してしまう。フラれるんだ。
 私の肩をガッと掴んで体を引き離した彼の瞳はゆらゆらと揺らぐ。

「事務所の人とは付き合わないって決めてんだ」

「私が事務所の人じゃなかったら……いいんですか?」

 彼をじっと見つめて返事を待っていると、彼が私を抱き寄せた。耳元で彼のため息が聞こえる。

「ユリは俺にとって今も大事な教え子だよ」

 タバコのにおい。彼はヘビースモーカーだ。
 私、タバコ吸う人は苦手なんだけど彼を好きになってからそんなことどうでもよくなった。
 もちろん吸わないでくれたらそれが1番。
 だけど彼の手にかかればタバコのにおいだってトキメキの材料へと代わる。
 先生のタバコのにおい、強く感じれるほどに密着していると思うと好きが溢れてしまう。
 彼は私を簡単に傷つける。
 仕事を切り上げてまで私に会いに来たくせに——
 私の気持ちに気づいてるくせに、どうして近づいたと思ったら次の瞬間に私を突き放すの?

「だいっきらい!!!」

 彼を突き飛ばして部屋を後にした。