「昨日、本の制作の注文が入ったから、注文を受けてからの流れを、話しておくわね」

「作業場」——デザインや印刷をする仕事場のことを家族の間ではそう呼んでいるのだが、そこでお母さんが書類を引っ張り出してきて私に説明をした。何の心の準備もなしに突然仕事の話をされても、正直頭に入ってこない。

「……とういうわけだから、今後同じような案件が入った時には、美由も一緒に手伝ってちょうだい。まずは仕事を一緒にするところから。だんだん覚えていけるし、今から鍛えればすぐ覚えられるわ」

「……うん」

 お母さんの仕事の説明は、右耳から左耳へ、すべてするりと抜けていっていた。それでもお母さんは、私が最後まで話を聞いてくれて満足したのだろう。好きなだけ話をし終えると、「あー先週のドラマの続き見なきゃ!」と作業場から足早に去っていく。
 誰も、私の気持ちなんて考えてないんだから。
 自分のことばっかりで、誰かに面倒ごとを押し付けようとしている。真由も沙由も、お母さんだって。とりあえず私という後継者を見つけて、安心しているのだ。お父さんは何も口出ししてこない。一番タチが悪い。

 不貞腐れた気分で作業場から二階の住宅へと上がる。さらに三階の自分の部屋の扉を開けて、机の横に立てかけている楽器ケースから、愛用のヴァイオリンを取り出した。
 部屋の中では音が響くから、防音室に入る。
 やなせ印刷の後を継ぐ代わりの条件として、親にせがんで設置してもらった防音室。
 顎の下にヴァイオリンを構えて、チューニングを始める。柔らかいとも硬いとも言えない弦を、弓で撫でる。幼い頃から聞き慣れた音が、荒んでいた心を溶かしてくれた。
 今、練習しているクラシックの曲を、防音室で思い切り響かせる。ここには誰もこない。誰も、趣味に没頭する私に関心がない。だから自由に翼を広げることができる。防音室という鳥籠から、出ることさえしなければ。
 私だっていい加減、自分のことばかりだ。