――なんてことだろう。
 厄介なことになる前に逃げ続けてきたのに、もう終わりだ。
 心臓が大音量で騒いでも、頭が熱でくらくらしても、古里先輩から目を逸らせない。

 手を引くどころか、身動き一つ取れない。
 感情が麻痺して、雰囲気に流されてしまいそうになる。

 でも、理性がそれを押しとどめた。
 どうしても確認しなければならないことがある。
 脳裏に焼き付いたように離れない光景があった。

「……古里先輩には彼女がいるんじゃないんですか。他の子にこんなことしていいんですか」

 私は見た。
 忘れもしない、去年のクリスマスイブ。
 駅前の通りで、同じ進学校の制服を着た女子と白い息を吐きながら、笑い合う彼の姿を。
 相手は私の憧れをそのまま具現化したかのような、まっすぐに流れ落ちる黒髪を持つ美人だった。
 大人っぽくて色艶があって――一目見ただけで、到底敵わないと思うような。

「いないんだからいいんじゃないの?」

「え」
 私は目を丸くした。
 ということは、あのとき見かけた女子はクラスメイトだろうか。
 それとも幼馴染とか、そういう類の友人だろうか。
 真偽のほどは不明だが、彼がそう言うのならばそうなのだろう。
 そうであってほしい――そう信じたい。

「何その反応。彼女がいるのに他の子にちょっかい出すとか、そんな不誠実な輩《やから》と一緒にしないでほしいんだけど」
 古里先輩は傷ついたような顔をした。
「あ、ご、ごめんなさい」
 反射的に謝る。
 しかし、彼女がいないとしても、これはちょっとどうなのだろう。
 手を掴まれている現状を鑑み、私は苦言を呈した。

「でもあの、やっぱりずるいと思うんです。眠ったふりをして、騙し討ちみたいに手を取って……困るんですが」
「嫌?」
 古里先輩は真顔に戻って、問いかけてきた。

「嫌なら手を離すよ」
 臆することなく見つめてくる彼の黒瞳。
 選択肢は君にあげる、と言われた気がした。
 手を離されることを望むのか、それとも――それとも?

 ――それとも、何?

 休憩室に二人きり。
 彼に手を掴まれ、彼が目の前にいる。
 彼が真剣な表情で私を見ている。
 心の天秤がぐらぐら揺れる。

 それを見透かしたように、古里先輩が笑った。

 瞬間的に頭が熱くなり、心の天秤が大きく傾く。
 限界まで傾いた天秤が、がたん、と音まで立てたような気がした。