「古里先輩。古里先輩、起きてください。こんなところで寝ちゃダメですよ。寝るなら帰ってからにしてください」

 呼びかけても返事はない。
 揺り起こす必要がありそうだ。

 さ、触っても……いいんだよね?
 非常事態だもん、仕方ないよね!?

「し、失礼します……よ?」

 私は恐る恐る右手を伸ばし、彼の左肩を叩こうとした――のだが。
 その瞬間、古里先輩の手が動いた。
 え、と思う暇もなく、右手を掴まれた。

 唖然として、瞬きする。
 古里先輩は伏せたまま目を開き、動揺する私を見て笑っていた。
 反応を楽しんでいる――からかわれているのだ。

「!? お、起きてたんですか?」
「うん」
 古里先輩は悪戯をしかけた子どものように微笑み、起き上がった。
 手を引きたいけれど、掴まれているため、それができない。
 相手が年上だと思えば強引に振りほどくこともできず、なされるがままにするしかない。

「あの……離してもらえません? どうしてこんなことを?」
 頬の温度が上昇していく。
 多分、私の顔は赤くなっている。

「僕がバイト辞めるって言っても、全然寂しくなさそうだから。悔しくて」
 く、悔しい?
 なんで?

「ど、どういうことですか?」
「わかってるでしょう?」
 まっすぐに目を見つめて、古里先輩は微笑とともにそう言った。

 ――こ、これは、反則でしょう……!
 からかわれているだけだとわかっているのに、自分の手を包み込む大きな手の感触を妙に意識してしまう。

 みっともなく動揺しそうになる。
 私は朱に染まった頬を隠すために俯き、反論した。

「いえ、わかりませんよ。古里先輩に人をからかって楽しむ趣味があるというのはいま初めて知りました。そんなことよりですね、手を――」
「嘘だ」
 古里先輩は繋いだ手を少しだけ引いた。
 予想外の行動に、否応なく顔があがる。
 吸い寄せられるように啓を見てしまう。
 眼鏡の奥にある、何もかもを見透かしたような瞳と目が合い、心拍数が上がった。

「並川さんはわかってたはずだよ? もうとっくに、何もかも、全部」
「……な、何のことですか」
 うるさい、黙れと念じても、心臓は一向に鎮まらない。
 間近に見た古里先輩の瞳のせいだ。

 きっと私は、この目は危ないと本能で気づいていた。
 彼の目は魔性だ。私を虜にしてしまう。