「おはようございます」
「おはよう」
 さっきも挨拶したというのに、店長は再び笑顔で挨拶してくれた。

 店長は今年で五十になる陽気なおじさん。
 開店前に呑気にコーヒーを飲んでいたり、掃除中に鼻歌を歌っていたりもする。
 顔は駆先輩によく似ていて、駆先輩が年を重ねたらこんな感じになるんだろうなと思う。

「美祢子ちゃん、おっはよーう。あれ、でもまだ早くない? もうちょい休んでていいのに」
 床のモップ掛けをしていた真淵駆《まぶちかける》さんがカウンターを振り返った。

 無造作に跳ねた茶髪。
 耳元で光るピアス。
 すらりと伸びる長い手足で格好良い制服をばっちり着こなしている彼は、この店の看板娘ならぬ看板息子。

 私は高校一年の夏休みから『陽だまり』で働いてきた。
 一年以上一緒に働いていて、その姿に見慣れているはずの私でさえ、たまにドキッとする瞬間があるんだから、初見の女性客が骨抜きになるのもわかる。

 こんなイケメンに「いらっしゃいませ」なんて微笑まれたら……そりゃあもう、落ちますよね。

 事実として、愛嬌たっぷりのイケメン目当てに足繁く通う女性客は、それはそれは多い。
 駆先輩は女性の常連客との会話を心底楽しんでいるようだし、カフェスタッフは彼にとって天職だと思う。
 でも、私が気になっているのは彼じゃない。

「並川さん。おはよう」
 テーブルの整理をしながら優しく微笑んだのは、黒髪の男性。
 駆先輩の幼馴染、古里伊織さんだった。

 端正な顔立ち。黒縁の眼鏡。
 駆先輩がワイルド系イケメンなら、古里先輩は正統派イケメンって感じだ。
 物語に出てくる王子様みたいな人。
 彼を見るたびに、私の心臓はドキドキ鳴る。
 鳴ったら、ダメなのに。

「おはようございます。あの……古里先輩。昨日、店長に、今週いっぱいでバイト辞めちゃうって聞いたんですけど、本当ですか?」
 昨日の夕方、私は店長から来週のシフト表を貰った。
 シフト表からは古里先輩の名前が削除されていた。
 理由を聞いたら、店長は「古里くんは辞めることになった」と答えた。

 あまりにもショックで、心臓が止まるかと思った。

「あれ。自分の口で言おうと思ってたんだけど、もう聞いちゃったんだ。うん。僕も受験生だからね。そろそろ勉強に専念しないと」
 古里先輩は微笑んだ。
 私は公立に通う高校二年生、古里先輩は私立の名門校に通う三年生。
 きっと、古里先輩は私には絶対に行けないような超難関大学を第一志望にしているのだろう。

「…………」
 私はキュッと唇を結んだ。
 辞めないで、なんて我儘、言えるわけがない。

「そうですか。わかりました。受験、頑張ってください」
 私は『聞き分けの良い、理解ある後輩』のふりをして、精いっぱいの笑顔を作った。

「…………」
 何故か、古里先輩はちょっとだけ悲しそうな顔をした。
 いや、それは私の気のせいだったかのかもしれない。
 
「ありがとう。頑張るよ」
 そう言って、古里先輩は綺麗に笑った。