「すみませんでした。嫌な思いをさせてしまって」

10時になり、一息つくためにコーヒーを淹れた幸太は、愛良にも休憩を取るようにと同じコーヒーを用意し、デスクの上に置いた。
「ありがとうございます」と頷いた愛良。

そんな愛良をじっと見ていた幸太。

「あの人は面接に来た時、非常識な格好をしていて断りました。でも、採用された人が入院して、特にこちらから代わりをとは連絡していませんが、勝手に押しかけてきたみたいです」
「…そうですか…」
「人事に確認したら、他の採用者が決まるまで人手が足りないから雇うことにしたそうです。総務で雇うらしいです」
「人事で決まったのなら、仕方がないですね」

 シレっと答える愛良だが、どこか眼鏡の奥で怒りを抑えているようにも見える。
「早急に代わりの人を派遣会社から頼んでいます。代わりが来るまでは…俺が、嫌な思いをさせないようにしますから。絶対に辞めないでください」
 幸太の言葉に愛良は仕事の手を止めた。
 
 パソコンの画面をじっと見つめたまま黙っている愛良…。

「…ご心配なく。辞めるつもりはありません。…派遣社員ですから、途中で辞めたら次の派遣社員に迷惑がかかるので」
 そう言って愛良は再び仕事に取りかかった。

 幸太は無言でデスクに戻り、仕事を再開した。

 金澤美和。
 この名前は幸太にとって見覚えのあるものだった。それは彼が大学2年生の時のことである…。

 交差点で信号を待っていた幸太は、隣にいた愛香と楽しく話していた。

 愛香は細身で小柄な女性だった。彼女の可愛らしい笑顔は魅力的で、多くの男性に好かれていた。彼女の美しい長い黒髪は腰まで届き、純和風の美しさを感じさせた。英語が得意な愛香は、よく幸太に英会話を教えてくれた。しかし、愛香はいつも「この英会話はお姉ちゃんから教わったの」と言っていた。

 二人が信号待ちをして楽しく話していると、突然後ろからドンと強く押され、幸太は道路に投げ出された。
 車が行き交う道路に放り出された幸太は、勢いよく走ってきたトラックにはねられた。
 道路上には鮮やかな赤い血が広がり、周囲は騒然となった。

 救急車で搬送された幸太は一命を取り留めたものの、頭部の怪我により視力を失った。
 腕と足の骨折で全治三ヶ月と診断され、しばらくは入院生活を送ることになった。怪我が癒えリハビリが可能になっても、幸太は暗闇の中で未来が閉ざされたと感じ、生きる意欲を失いかけていた。
 しかし、常に愛香がそばにいて、「大丈夫、光は取り戻せるから。お姉ちゃんに会いたいでしょ?」と励ましてくれた。
 その言葉を聞く度に、幸太は見えないはずの視界の中で不思議と愛良の顔が浮かんでいた。愛香が見せてくれた愛良の写真が唯一の支えだったが、その顔が浮かぶたびに生きる希望を見出していた。
 
 長いリハビリを経て3ヶ月間の入院生活を終えた幸太は、事故の詳細をもう一度聞くために警察署を訪れた。

 幸太の事故には殺人の疑いが持ち上がっていた。というのも、幸太を背後から押した人物が目撃されていたからである。

 その人物は金澤美和であった。美和は以前、別の法律事務所に勤めており、問題を抱えていた。美和と関わった男性社員が次々と失踪したり、不審な死を遂げていた。また、美和が好意を持つ男性社員と親しくする女性社員には、ひどい嫌がらせが行われ、精神的に追い詰められた末に辞職したり、自殺に追い込まれる者もいた。そのため、事務所からは退職を促されていたようだ。
 周囲の人々は、不気味な美和を避けていた。

 幸太と愛香が信号待ちをしていた時、「幸太さん」と呼びながら美和が近づいてくるのを目撃されていた。また、勢いよく手を伸ばしている様子も目撃されていた。

 幸太は金澤美和との知り合いかどうか尋ねられたが、全く面識がないと答えた。

 
 事故から5年が経過しても疑念は晴れず、幸太は金澤美和が原因だと考えていた。

 そのため、面接に来た際、服装が相応しくないのもあったが金澤美和の名前を見て不採用とした。
 その顔つきには異常さがあり、幸太を見るその視線は不気味だった。法律事務所の面接にも関わらず、他の人々がスーツで来ている中、美和は花柄のワンピースと赤いハイヒールで若作りしていた。その服装は法律事務所にはふさわしくなかった。履歴書に記載された学歴も不明瞭で、美和が記載した学校はすでに閉校しており、職歴も不明瞭だった。前職を辞めた理由を尋ねると、「パラリーガルとして働いていたが、弁護士の能力が低く学びにならなかった」と答えた。35歳になる美和がパラリーガルであることにも違和感があり、「私は有能な秘書です」と自己を美化していた。

 その時、もし殺意があったとしたら、それはなぜか。そして、5年経って再び現れたのは何の目的でか?
 幸太には疑念が消えなかった。

 ただ一つ確かなことは、美和を雇うと何かとんでもないことが起こるということだけだった。